なんでも平気な人向け
シンとルヰとヒロ
—
シンを導いた少年に再会したのは、実家へ寄った週末の帰り道だった。
「シン」
まるでシンがここを通ることを知っていたかのように、いつかみたいに川沿いの道に立って、金色の瞳がまっすぐにシンを見ている。世界はちょうど昼と夜の境で、空は橙と藍色が混じり合い、太陽の光は眩しさを増している。
「ルヰくん」
予想していなかった邂逅に声が弾む。ルヰが当然のようにベンチに座ったから、シンも隣に腰掛けた。
「そうだ、ルヰくんにこれを返したかったんだ」
ルヰから渡されたペンダントを、シンはいつも身につけていた。いつか会えたら返せるように。また逢えるよ、と言った彼を信じて。
首の後ろに両手を回し、ペンダントを外そうとした。それをルヰがそっと止める。
「いいんだ」
ルヰの手がシンの指を包む。ひやりとした体温が伝わって、シンの指をペンダントから外させた。
「それは、シンが持っていて」
首を傾げるようにしてシンの顔を覗き込む。ルヰのイヤリングが動作に合わせて揺れて、夕陽を反射した。何色とも言えない光がシンの目を射して、思わず瞬きをする。
「いいの?」
「うん。シンに持っていてほしいんだ」
「わかった」
頷くと、ルヰは満足そうに目を細めた。睫毛が瞳に影を落とす。白い肌と夕焼けに照らされた陰影で、彫刻のように見えた。
握られたままの指先、触れた箇所はだんだんと熱を分け合って、さっきよりも温かく感じる。
「ねえ、シンのプリズムショーはほんとうにすばらしいよ」
「えっ、本当? ありがとう」
ルヰの表情は真剣で、世辞には見えない。緊張しながらもステージに飛び込んだシンの初めてのプリズムショーをルヰも見てくれていたのだと思うと嬉しかった。
聖も、ヒロやカヅキも、エーデルローズの面々も褒めてくれた。そして今はルヰが賞賛してくれている。照れくさく感じながらも嬉しいのは事実だし、もっともっとショーをしたい、うまくなりたい、いろんな人に見てほしいと思う。
「きみのプリズムショーはもっとたくさんの人に観られるべきだ」
「そんな、大袈裟な」
「本心だよ。……ねえ、シン」
ルヰはシンの手をそうっと持ち上げ、指先にくちづけた。
シンはその様子をただ見ていることしかできなかった。こんなことをされるのはもちろん初めてで、けれど不思議と嫌悪感はなく、いっそ芝居じみた動作に吸い込まれるようにしてじっと見つめた。
「僕と一緒に来て」
「ルヰくん……?」
「僕ときみが一緒なら、もっともっとたくさんの人にプリズムショーを観てもらえる。エーデルローズにいるよりもずっと大きなステージで、大勢の前で、きみは完璧なプリズムショーを披露できるんだ」
うっとりと囁く声は甘い呪文のようだった。言葉が脳のなかで溶けて、全身に広がってゆく。
「でも、僕はエーデルローズに」
「さみしいなら、みんなでおいでよ。シンの大好きな先輩も、仲間も、みんなで一緒に来たらいい。みんなでステージに立とう、世界中の人に僕たちのプリズムショーを観てもらおう」
ルヰの言葉は、なんら問題がないように思えた。シンはプリズムショーの煌めきを伝えたくてエーデルローズの門を叩いたのだ。聖に見初められた恩義はあれど、ショーをするためにエーデルローズにいなければいけないわけではない。
シンだけを映したルヰの瞳は、夕闇に浮かぶ月の色をしていた。
「約束するよ。世界は僕たちのものになるんだ」
練習のため立ち寄ったエーデルローズのリンクに、他の仲間はいなかった。珍しいこともあるものだと思いながら、ヒロは練習着に着替え、ブレードを滑らせる。
誰もいないリンクは静かで、まるで世界にひとり取り残されたかのような錯覚すらあった。ブレードの摩擦音、加速にあわせて自分の身体が空を切る音、乱れないよう努めながらもだんだんと上がっていく呼吸。ショーの本番であれば音楽や歓声にかき消されて聞こえない音が、今はうるさいほど耳に届く。
そうして何度目かのジャンプを着地した頃、ヒロしかいなかった世界に闖入者が現れた。
「ヒロさん」
減速しながら声の方──リンクの入り口にあたる階段を見やる。経験は浅くとも将来有望な後輩がそこにいた。
「シン。シンも練習しに来たのか?」
先輩らしい声音で声をかけながら、同時に疑念が湧く。シンは華京院の制服でも、エーデルローズの練習着でもなく、私服を着ていた。夜の食堂ならばともかく、リンクに私服で来ることはそうあるものではない。
シンはゆったりと微笑み、リンクの端まで来たヒロの正面に立った。
「一緒に行きましょう」
「え?」
どこへ行くというのか。買い物だとか、散歩だとか、そんなものの話をしているのではないことは雰囲気で伝わった。夜の半地下室はいくつかの照明だけが頼りで、薄暗い中、シンの瞳だけが場違いなほどに輝いている。
「僕、ヒロさんに憧れてるんです。一緒にプリズムショーをしたい。僕とヒロさんが一緒にシュワルツローズへ行ったら、きっと世界中のひとが僕たちのプリズムショーを観てくれます。すごいことだと思いませんか!」
「な……にを、言ってるんだ、シン」
シュワルツローズ、と。シンは確かにそう言った。信じられなくても、シンはにこにことヒロを見つめ、ヒロが頷くのを待っている。頷かないことなどありえないと信じているかのように。
「だめだ……だめだよ、シン、それはできない」
「どうしてですか?」
なぜ人を殺してはいけないのかと問う子供のような、シンのきらきらした瞳にぞっとする。自分たちのプリズムショーを観て目をきらめかせていた時には微笑ましく思っていたのに、対象が変わっただけでこんなにも恐ろしく見えるのかと思うと頭を強く殴られたような心地がした。
「だって、みんな、もう行きましたよ」
「…………え?」
シンの口調は、この世の裏を知らない純粋な子供のようでも、仕様のない子供を諭す大人のようでもあった。シンの態度が掴めなくて、そのせいでだんだんとヒロの輪郭も曖昧になってゆく。
「みんな、って……?」
「みんなです。ミナトさんもユキノジョウさんもカケルさんも、タイガくんもレオくんもユウくんも。みんな、もうここにはいません。あとはヒロさんだけです」
「シンが、連れて行ったのか?」
「一緒に行こうって、言っただけですよ。ちょうど今、ヒロさんに言ったみたいに」
間近にある燃えるような赤い瞳に、思考が覆われていくようだった。シンの態度は一縷の迷いもなく、それを見ていると自分の方が間違っているような気がしてくる。エーデルローズ。シュワルツローズ。プリズムショー。コウジはエーデルローズを守るために渡米して、カヅキは悩んだ末にエーデルローズを去り、後輩たちは、氷室主宰は、──シュワルツローズは、仁は。
ぼろぼろの幼い自分に手を貸してくれた兄のことを思う。明確な理想を持つ、厳しい人ではあったけれど、仁のプリズムショーはすばらしいし、彼の手腕が一定の成功をおさめていることは知っている。
「シン……」
「はい。ヒロさん」
シンはヒロよりもいくらか低い身長のこうべを垂れ、ヒロのだらりと脱力して垂れたままの手を取った。なぜだかひどく冷えてしまっているその手に命を吹き込むように、そっと唇を寄せる。
上目遣いで伺うと、ヒロはひどく狼狽していて、けれどシンの手を振り払うことはしなかった。
「シン、俺は、」
振り絞るように出した声は朗々と歌い上げるスタァとは程遠い。視界がぐにゃりと歪む。シン以外のすべてのものが、形を失って朧になる。
そうして、一条シンは世界を滅ぼし、幸せに暮らしましたとさ。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます