とまり木

コウジ渡米後に寮のコウジの部屋に行くヒロ、と山田

 ヒロにとって家というのはたったひとつの存在ではない。
 どうやら世の中はそうではないらしいということに、ヒロは幼い頃に気づいていた。施設で大勢のこどもたちと共に暮らすことも、母親と暮らすアパートから日の沈んだ公園へと追い出されることも、他人の家へひとりで移り住むことも、普通のこどもは経験しないことらしい。ヒロに選択権はなかったから、これらすべて経験してきたけれど。
 だからヒロにとって、家というのは帰るべき暖かなたったひとつの場所ではない。屋根があって、食べ物があって、眠れる場所。そういう存在はたった十八年の人生の中にいくつもある。施設も、アパートも、法月家も、エーデルローズの寮もみな、ヒロを育てた家だ。
 たくさんのとまり木の間を飛び回る鳥のように、羽を休める場所をいつも渡り歩いている。

 エーデルローズが縮小する時、残ったメンバーには一人部屋が与えられた。机とベッドが二つずつ並んだ部屋を、皆ひとりで使ってるいる。
 ただでさえこじんまりとした建物へ移るのに、そこにある定員二名の部屋をすべて埋めるほどの人数も残らなかったからだ。
 コウジとカヅキ、そしてヒロはオーバーザレインボーとしての活動もあるから、都合によって寮と自宅を使い分けた。生活できる程度の私物を置いたコウジの部屋は彼の渡米後もそのままにされていた。
 コウジのギターとかすかな気配の残る部屋は、ヒロのとまり木になるには十分だった。

「おっと」
 同時に顔を見合わせて、山田がおどけた声を上げた。ヒロがとっさになにも言うことができなかったのは、後ろめたさがあったからだ。
 コウジの部屋だった。両手で足りるほどの人しか暮らしていない寮はいつも静かで、後輩たちの目を盗んでコウジの部屋に入ることは難しくない。たまに山田が空気を入れ替え掃除しているから、ドアには鍵もかかっていなかった。
 コウジが渡米してから、ヒロはときどき主のいない部屋に忍び込んでいた。なにをするわけでもない。コウジが使っていたのと反対側のベッドに腰掛けて、ただ夜の更けゆく時間を過ごす。
 ここには仲間の気配があるし、他の誰の目もない。ヒロのとまり木の中でそういう場所はここにしかなかった。
 ──たった今、山田に見つかってしまったけれど。
「電気くらいつけたらどうだ?」
 山田は咎めなかった。代わりに、夜なのに明かりをつけずに親友の部屋にいるヒロを見て仕方なさそうな顔をした。
 ヒロは返事の代わりに首をすこし傾げた。明かりはつけていないが、窓からは外の明かりが射しているから完全な暗闇ではない。ヒロの目はもうこの明るさに慣れているし、山田の視界も似たようなものだろう。
「コウジには秘密にしてくれますか」
「別に怒らないと思うぞ」
 山田は部屋に入ってドアを閉めた。ひとがふたりいても恐ろしいほど静かだ。
 ひとり隠れるように過ごしていたところに山田が来たことに対する不快感は不思議となかった。どうしても気まずく思ってしまうのは、彼が大人だからだろう。悪戯が見つかってしまった子供のような気持ちで、ヒロは曖昧な笑みを浮かべた。
「まあ、大変な時期だけどな」
 山田はくわえていたチョコレートをぱき、と噛んだ。小気味好い音がヒロの耳にも届く。
「オレにできることがあったら遠慮なく言えよ。飯を作る以外ならやるから」
「……ありがとうございます」
 たぶん山田は、今のヒロの気持ちの揺らぎを知っている。彼もかつてプリズムキングを目指し、そして勝ち取ったひとだから。
 だからこそ適当で不確かな言葉はかけないし、それがヒロにはありがたい。大会でステージに立つ時はひとりきりだ。周囲に支えられていたとしても、最後は自分の気持ちで、自分の足でステージへ向かわなければならない。
 山田はじっとヒロの目を見て、薄く微笑んだ。ヒロが、少なくとも今はなにも頼らないと伝わったのだ。
「じゃあな、おやすみ」
「寝る時は自分の部屋に戻りますから」
「ここで寝ても秘密にしといてやるよ」
 寮長はおどけたようにそう言って、ウインクを投げて出て行った。
 ヒロがこのままこの部屋で眠ったとしても、山田はきっとなにも言わないしコウジにも告げないだろう。
 ひんやりとした空気の満ちた部屋をゆっくり見渡す。コウジのギター、壁に貼られたポスター、机に並んだ本、月明かりの射す窓、今は眠るひとのいないベッド。
 ヒロは息継ぎをするように深く呼吸し、自分の部屋に戻るため立ち上がった。

 たくさんのとまり木の間を飛び回る鳥のように、羽を休める場所をいつも渡り歩いている。
 次にまた羽ばたくことができるように。

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