モブヒロとコウジ。性描写なし、暴力表現があります
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抵抗を、しなかったわけではない。
速水ヒロ個人として呼ばれたバラエティの収録は、細かい指示の多いディレクターのもと、拘束時間が予定よりも大幅に長引いた。よくあることとはいえ疲労するのは確かで、終わった頃にはいつもより身体が重い。今日はこれが最後の仕事だし、早く帰って眠ろう、そう思っていた。
あてがわれていた小さな楽屋で私服に着替えようとしたところに、コンコンとノックの音。
共演者やスタッフへの挨拶は済ませてきたから、もう誰かが訪れることはないはずだ。訝しみながらもドアへ目をやると、返事をする前にそれは開いた。
「ヒロ君、お疲れ」
「はい……今日はありがとうございました」
入ってきたのは番組のディレクターだった。バタン、カチリ、とドアの鍵がかけられた音がして、ヒロの心をざわつかせる。男は収録中は気難しそうにしていた顔をへらりと崩し、無遠慮に近づいてきた。
「あの、何かありましたか? ミスがあったなら録り直しを、」
「いやいや、そういうことじゃなくてね」
何度か仕事で関わりのある男だったが、あまり良い印象はない。それが突然こんなふうに楽屋に入り込んできて何の用だというのか。
答えは問う前に示された。ごつごつと節くれだって乾燥した男の手が、無造作にヒロの頬に触れたのだ。
「あ、の、」
「ああ、思ったとおり綺麗な肌だ」
言葉を遮られ、睨めるような視線を向けられて、ヒロの身体が竦んだ。息を呑む間にも男は手を首へ滑らせ、背を辿って腰を撫でて抱き寄せる。ここまでされてしまえば、目的なんて訊かなくてもわかる。
「困ります」
「うん?」
身じろぎしてみても、男の力は予想以上に強く、身体の向きを変える程度にしかならない。ヒロより少し高い位置にある男の顔が、ヒロを見下ろしてくつくつと笑った。
「困るのはどっちかな?」
含みをもたせた声に、男と初めて会った時のことを思い出す。今と同じ楽屋で、この男が収録前に挨拶に来て、その時は、ヒロの隣にはコウジとカヅキがいた。男がディレクターを務める番組で何度か三人での収録をした後は、ヒロ個人が呼ばれるようになった。
今後ヒロ一人が番組から退けられたとしても、それ自体に思うことはない。ただ、コウジやカヅキの仕事へのつながりが切れてしまうこと、エーデルローズ全体のことを考えると、ここでヒロが男を撥ね退けるのは賢くない、と思った。男は動かなくなったヒロを楽しむように、耳元に口を寄せてくる。
「どうせ誰とでもやってるんだろう」
明らかな侮辱の言葉に、初めてでなくてたまるか、と心の中で反論する。こんなこと、誰にも許したことはない。性的な目を向けてくる仕事相手はこれまでにもいたが、実際に何かをされたことはなく、だからこそヒロも気に留めないようにしてきたのだ。
「わかるね? ヒロ君」
わかりたくなんてなかった。けれど虚しいほどにわかる。断ったら、大勢の大切な人たちに影響すること。自分が諦めさえすれば、誰にも迷惑をかけずに済むこと。
「…………はい」
だからヒロは、頷くしかなかった。
重い身体を動かしてアパートへの帰り道を行く。淀んだ黒い冬空には星などひとつも見えない。夜の冷え込みは予想以上で、呼吸の度に息が白く散った。等間隔に並ぶ街灯の明かりをひどく眩しく感じて、逃れるように早足になる。
まだ身体の表面をべたべたと触られているような気がして不快感が尾を引いている。行為のあと、男は楽屋と同じフロアにあるシャワールームを使うよう勧めてきたが、一刻も早くその場を離れたくて、明日も早いので、と断った。帰るまでの辛抱だ、家に着いたらシャワーを浴びて寝てしまおう、何も考えたくない、考えても仕方がない。済んだことだ、忘れてしまおう。
思考を使わないように努めて、ひたすらに足を動かす。そうしてアパートに帰り着き、これで安心だと言い聞かせながらドアを開けて、この薄いドアに鍵をかける習慣がないことを初めて後悔した。
部屋には明かりが灯っていた。ヒロは出かける時必ず明かりを消すから、これは人が来ていることの証だ。
来客の正体は不審者ではない。狭い家の中、玄関にまで香りがいっぱいに広がっている。つんとしたスパイスの刺激が嗅覚の奥まで届いた。カレーの香りだ。今まさに煮込んでいるであろう温かな料理の気配は、部屋にいる人物が誰なのかを伝えてくる。
「ヒロ、帰ったの?」
玄関に立ち尽くしていると、赤いエプロンを身につけたコウジが姿を見せた。おかえり、と、いつものあの害のない笑顔を向けてくれる。
会いたくなかった。そう思って、コウジに会いたくないと思うことがあるのかと、頭を殴られたような気分になった。少なくとも今日この時まではそんなことを思ったことは一度もなかったし、あんなことさえなければ今だって両手を広げて歓迎できた。
コウジが食事を作りに来てくれることはたまにあって、ヒロはそれをありがたく思っているし、どうせいつも鍵などかけないから好きな時に来て構わないと伝えてあった。ヒロの留守中に彼がこうしていることは一度や二度ではない。コウジの料理はなんだっておいしいし、一緒に食事できるのは嬉しい。今までもこれからも、それが揺らぐことなどあるはずがないと思っていた。
「……ヒロ? どうかした?」
玄関に突っ立ったまま、靴も脱がないヒロを訝しんでコウジが小首を傾げる。それから足を動かしてこちらへ近づいて来ようとするのを見て、やっとヒロの身体が動いた。放り捨てるように靴を脱いで部屋に上がる。靴下越しに感じる床は冷たい。
「あ、ああ、コウジ、来てたのか」
「うん。ヒロ今日も仕事だったし、放っておいたら夕飯抜いちゃいそうだからね」
そう言って仕方ない子供を見るように笑う。それなりに長い時間を共有しているせいか、コウジは経験則からヒロのことをよくわかっていた。そうだな、さすがコウジ、と口を動かしながら、さっきまでのイレギュラーな出来事は絶対に知られてはならないと思う。誰にも知られたくないのは当然だが、もしコウジに知られたらと考えると全身が凍りつきそうだった。
「俺、先にシャワー浴びるよ。外寒かったんだ」
「その方がいいね。明日からはマフラー使うんだよ」
「ああ」
コートと鞄をベッドに放り投げてさっさと浴室へ向かう。できるだけ不自然にならないように振る舞ったつもりだが自信はあまりない。シャワーを浴びたくらいであれがなかったことにはならなくても、せめて形だけでも洗い流してからコウジの前にいたかった。
着ていたものを乱暴に脱いで、いつもより強く出したシャワーを浴びる。跳ねた湯がシャワーカーテンに当たってぱたぱたと鳴るのは、雨が傘に落ちる音に似ていた。
裸の身体を見下ろすと、掴まれたり噛まれたりした跡が視界に入って、反射的にぎゅっと目を瞑った。跡が残されていたのはどれも普段の生活では見えない場所だったが、それが却って相手の狡猾さを表しているようでおぞましい。されたことを嫌でも思い出してしまって目元が熱く震える。泣きたくなくて、ごまかすようにシャワーを強めた。
頭から湯を被り続けても、綺麗になった気なんて全くせず、むしろ汚れがどんどん露わになっているように感じる。浅く呼吸しながらじっと足元に視線を落とし、溜まった湯が排水口に吸い込まれてゆくのを見ていた。
普段のヒロは烏の行水で、浴室へ行ったと思ったらすぐに出てくる。広い風呂ならいざ知らず、アパートの狭いユニットバスでは長湯のしようがないこともあるだろう。だからコウジは、このアパートでヒロがシャワーを浴びるのを待つ時に、遅いと感じたことがなかった。
それが今日は遅いと思ってからもう十五分は経っている。シャワーの音は聞こえてくるから、まだ中にいるのだろう。
「ヒロ、大丈夫?」
浴室の扉越し、少し大きめに声をかける。何もないならいいが、倒れでもしていたら問題だ。
耳を澄ませても返事はない。次いでノックをしてみても反応はなかった。
「ヒロ……? 入るよ?」
聞こえていないのだろうが一応声をかけてから扉を開けると、浴室の籠った空気が流れてきた。シャワーの音がうるさいくらいに強くなる。
「ヒロ」
シャワーカーテンを少し引き、覗き込むように顔を出すと、立って俯いたまま呆然としているヒロがそこにいた。細い髪が額や頬に張りついて彼の輪郭を浮き彫りにし、それをなぞるように降った湯が伝って顎から落ちる。一切の感情を掬い上げられない、うつくしい人形のようだった。
初めて見るヒロの姿だった。こんな顔をするのかと、まるで知らない人を見たような気持ちになる。
一拍遅れて人の気配に気づいたヒロがばっと顔を上げ、コウジを見て唇を震わせる。
「……コウジ……」
シャワーの音に隠れるほどの小さな声がコウジを呼ぶ。何を言えばいいのかわからなくて、最後に残ったのが名前だったかのような声だった。ヒロの大きな亜麻色の瞳も長い睫毛もふっくらとした唇も、重く濡れて艶めいている。
そのありさまにはっとして、しかし次にコウジの目を奪ったのはヒロの身体だった。
「ヒロ、その腕……」
視線を顔より少し落とすとすぐに目に入るヒロの白い腕、その一部分が赤くなっていた。圧迫されたようにも擦ったようにも見えるが、どちらにしろ異常なことだ。ヒロはアイドルとして自分の身体を大切にすべきと考えていて、普段から肌や体型のケアに気を遣っている。彼自身のミスでこんな跡を残すはずがない。
コウジの視線が何を見たのかに気づいてヒロが反対の手で腕を隠す。隠したいなら腕の前にあてればいいだけなのに、爪が白くなるほど力をこめて腕を掴んでいて、その様子もやはり異質だった。何も言わず言えないままのヒロが、問うてくれるなと目で全身で訴えてくる。泣いているように見えたが、濡れ鼠のような状態でいるからどこまでが涙かはわからない。全部が涙のようにも思える。
「傷がついちゃうよ」
降り続けているシャワーの中に手を差し伸べ、腕を掴んだヒロの指に触れる。かわいそうなほどびくりと震えたのを宥めるように一度手の甲を撫でてから、指先だけを腕から剥がさせた。綺麗にまるく切り揃えられた爪はいつ彼のファンの視線に晒されてもいいようにするためのもので、自分の身体を傷つけるためのものであってはならない。
「コウジ、」
話したくないなら黙っていたっていいのに、ヒロは沈黙を怖がるように名前を呼んだ。うん、と返事をしながらシャワーを止める。途端にあたりが静かになって、ヒロがひゅうと呼吸するのも聞こえた。
置いてあったバスタオルを取って肩にかけてやる。髪の毛束に集まる雫をフェイスタオルで拭うとヒロは不思議そうな顔をして、コウジにはそれが不思議だった。
「さ、もう出よう。ごはんは食べられそう?」
「……うん……」
「よかった」
何もよくはない。ヒロに何かがあったことも、それを隠したがっていることも明らかだ。けれど今はヒロを落ち着かせ安心させることが最優先で、コウジにはそれができる自信があった。
今はやるべきことをやろう。自分のやりたいことをするのはそのあとだ。
ヒロに何があったのか、想像するのは容易かった。仕事に行く前に顔を合わせたときはいつも通りだったから、仕事へ向かってから帰ってくるまでの間に起きたことが原因だ。この日の仕事は一件で、コウジも経験のある現場で、ヒロの帰りは必要以上に遅くて、そこのディレクターがどういう目でヒロを見ているのかを知っている。
ヒロに食事を摂らせ、ホットミルクを入れて飲ませた。空腹と冷えは人の感情を曇らせる。
「疲れたでしょう。明日も学校あるし、片づけは僕がやるから先に休んでいいよ」
「え、でも……」
「僕は今日、仕事なかったから疲れてないし大丈夫」
なかば強引にヒロをベッドに押しこむ。ヒロは申し訳なさそうな顔をしていたが、ほどなくして小さな寝息が聞こえてきた。せめて夢の中では不安がないといい。
浴室に放ったままのヒロの衣服を検分するように確かめる。彼がよく着ている何の変哲もない服だが、証拠が残るとしたらここだろう。
これを着ている、コウジもよく見る姿のヒロがどんな目にあったのか、想像するだけではらわたが煮えくり返りそうだった。あの男がどんなふうに言い寄ったのかもありありと思い浮かべられて吐き気がする。ヒロは周りの人やものを過剰なほど大切にするきらいがあって、それ自体は悪いことではないのだが、同時にそれら全てが彼のウィークポイントにもなりうるのだった。
きっとコウジの存在もヒロを黙らせるために使われたのだろう。コウジはヒロが盾になることなど微塵も望んではいないが、ヒロがそれを望んで、その場にコウジが居合わせていないのなら、コウジにはもうなす術がない。
ヒロは耐えた。受け入れることは容易ではないだろうに、自分が盾になって他の誰にも波及させないようにした。それはヒロが選んだことだが、それを選ばざるを得なかったのはヒロのせいではない。ヒロは何も悪くない。悪いのは相手だ、これ以上ないほどに明確で明白なことだ。
絶対に許さない。
起こってしまった以上、ヒロが望むのはその事実が誰にも知られず、暴かれず、自分と相手の記憶がひっそりと忘れられてゆくことだろう。なかったことにするみたいに、ひっそりと閉じ込めておきたいのだろう。
けれどコウジにはそれができようとは思わなかった。自分が知ってしまったからだ。知って、こんなにも怒りを覚えるのに知らぬふりをできるほど、コウジは器用ではない。
「ごめんね」
眠る顔に小さく声をかける。返事のないことに安堵した。
何かの間違いがあってはいけないから、エーデルローズ側に当日のヒロの現場について確認をとった。話の中で今回の仕事はディレクターがヒロ個人を指名していたと知って、コウジの確信が強まる。
会う機会は思ったよりも早く訪れた。同じテレビ局の別の番組に、コウジ個人が呼ばれたのだ。作曲についてのインタビューをしたいという企画で、それ自体は慣れたものだから収録はすんなりと終わった。
楽屋でメイクを落とし、私服に着替える。暗いグレーのコートを着てマフラーを巻き、変装用の縁の太い眼鏡をかけた。スタァなんだからちょっとは気にしろ、と言ってヒロが選んだ眼鏡だ。もちろん顔が全部隠れるわけではないが、なるほど一目見た時の印象はずいぶんと変わる。
局内の別のスタジオで、先日ヒロが出演した番組の収録が行われていることを確認し、コウジは通用口近くにあるカフェに入った。少し離れてはいるが窓際の席に座れば人の出入りがよく見える。ディレクターの顔は知っているし、彼は表に立つ人間ではないから変装はしないだろう。
店に入ってどれくらい時間が経ったかわからない。淹れたてだったはずのコーヒーはすっかり冷めて、口に含んでも無駄な渋みばかりが広がる。別の出口から出てしまったかと危惧しはじめた頃、目的の人物が姿を現した。会釈した警備員に見送られて門を出るのが見える。隣には誰もおらずひとりで、コウジにとっては好都合だ。
コウジは早足で席を立って、男の後ろ姿を追いかけた。できるだけ自然に、さも彼のすぐ後に通用口を出てきたかのように装って。声をかけると男は振り返って、すぐにコウジに気づいた。
「やあ、コウジ君」
「こんばんは。お疲れさまです」
にこやかに挨拶をする。いつもステージで見せているのと同じ顔だ。ステージでは特別意識する必要はなくても、今は頬が引きつるのを堪えるのに精一杯だった。
「駅、こっちなんですね。途中までご一緒してもいいですか?」
「もちろん。コウジ君、今日うちで仕事だったの?」
「はい。いつもお世話になって、ありがとうございます。帰りが一緒になるなんて偶然ですね」
隣に並んで歩幅を合わせる。コウジより背が低く、中肉中背の男だ。彼に何か心得がない限り、互角にはなったとしてもコウジが負けることはないだろう。
雑談を交わしながら駅に向かう道を進む。スタジオは駅にほど近く、猶予はあまりない。コウジは男に一歩近づいて、歩みを遮るように立ち止まった。
「すみません、ちょっといいですか」
言って、返事を聞く前に男の腕をぐっと掴む。コウジの動きを予測していなかった男は簡単にバランスを崩し、コウジの引いたほうへ倒れ込んだ。そのまま引きずるようにしてすぐそばのコンビニの裏の路地に入る。そこは狭く暗く湿っていて、人影はおろか街灯の明かりすらろくに届かない。
「急に何を……ぐッ」
コウジは男の肩を壁に押しつけると、晒された腹部に向けて膝を打ち込んだ。男の着ているモッズコート越しに、膝が身体にめり込む感触がある。目の前の表情が歪むのを伊達眼鏡越しに見た。
「断っておきますけど、これは僕の個人的な行動なので」
発した声は普段よりもずいぶんと低く、自分は思っていたより怒っているのだと他人事のように認識した。怒っているはずでも、頭はやけに冴えている。膝に更に力を込めてからそれを離し、革靴で爪先を狙って踏みつけた。
「おい……! なんなんだ!」
男が抵抗しようと振り上げた腕を掴み、反対側に捻り上げる。ぎゃあと喚く声が耳障りで顔を顰めた。
「どういうつもりだ、こんなことをしてオバレがどうなってもいいのか!」
「ヒロにもそう言ったんですか?」
冬の夜なのに、身体は沸騰しそうなほど熱い。一瞬でも理性を失ったら顔面に殴りかかってしまいそうだった。
「そうやってヒロのことも脅していいようにしたんですか」
至近距離で睨みつけると男の表情が変わった。動揺しているのが手に取るようにわかる。喉仏が上下して、ひゅうと鳴った。
「な……何の根拠があってこんなことを……傷害罪で済むと思うなよ」
「ヒロの服に髪の毛がついてたんですよね。黒髪だから、本人のじゃないと思って」
コウジはペースを崩さなかった。殺しに来たわけではないし、できることなら男に触れたくはないし、でもじっとしていることもできなかったから、だからつまり、コウジはただこの男に攻撃したいのだ。それがヒロのためではないとわかっていても。
頭を両手で押さえ、正面から視線を合わせる。こんな季節に男がじわりと汗をかいているのが可笑しくて目を細めた。
「本当は体液も残ってたらより有利だったんですけど、ヒロがシャワー浴びちゃったから難しくて……残念です。でもまあ、この時期ただ一緒に食事しただけじゃインナーに髪はつかないですよね」
言って、コウジは男から離れ、肩を竦ませた。緩んだマフラーを巻き直す。寒さに特段弱いわけではないが、冬の寒空の下で首を晒す気にはなれなかった。
男は口をぱくぱくと動かしているが、声を出さないのでなにを言いたいのかはわからない。聞く気もないからどうでもいい。
「安心してください、大事にはしませんから」
それだけ言い残して路地を出た。表の道に出た途端、コンビニの過剰な明るさが目に刺さる。男は追ってこなかった。
元来た道を戻りながら、携帯電話を取り出した。コウジの使う駅はこちらではなく、スタジオの反対側だ。使い慣れた連絡先は数回の操作ですぐに繋がった。
「もしもし、ヒロ? 今どこ? ……そう、じゃあ帰ってくる頃にごはん作っておくね」
夜風は誰にも等しく冷たい。温かいスープを作ろう、と思った。
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