カヅキに口紅塗るコウジとヒロ(カプなし)
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「口紅の広告?」
素っ頓狂な声をあげたのはカヅキだった。なにを察知したのか、身体が若干後ずさる。とはいえ寮の部屋なんてたいした広さもないから、コウジやヒロとの距離はそう変わらない。
「そう。オバレの三人に出てほしいってさ。はい、これサンプル」
ヒロはこともなげに言って、ポーチの中からそれを取り出してベッドに並べた。部屋の照明を浴びて金色にきらきら光る細長い円柱状のルージュは、男子高校生にとってはおよそ縁遠いアイテムだ。
「へえ……」
キャップを外してルージュを少し繰り出したコウジがうっとりと溜息をついた。どうしてそんな声が出るのかカヅキには一ミリもわからないしわかる気もない。
「リップブラシある?」
「あるよ。はい」
当然のように言い放ったコウジの言葉をヒロは当然のように肯定して、ポーチからまた新たなアイテムを取り出した。
「ありがとう」
コウジは受け取ったリップブラシでルージュを何度か撫でると、左手の甲に滑らせた。花弁が落ちたかのように、白い肌の一部が淡いピンク色に染まる。
「……なんでコウジそんなに慣れてるんだよ……」
「え? だって、母さんやいとちゃんが持ってるから」
「俺もヘアメイクさんが使ってるの見てるからだいたいわかるよ」
「なんでだよ……!」
カヅキは心の底から呻いた。コウジがルージュの扱いに慣れていることや、ヒロがヘアメイクスタッフの仕草をよく観察していることは問題ではない。そんなのは好きにすればいい。ただそのせいで、あまり望んでいないことが起こってしまいそうな予感が強く強くするだけだ。
「綺麗な色だね」
コウジの言葉に答えるように、ヒロが身を乗り出して、ルージュをひいたコウジの手を覗き込んだ。
「ああ。でもこれ、どっちかっていうと……」
見下ろしていた視線を上げる。まっすぐに、コウジと目が合った。絶対に同じことを考えている、と、コウジもヒロも、それを見ていたカヅキも思った。なにを考えているかまでは、カヅキにはわからなかったけれど。
答え合わせはすぐだった。
「僕やヒロより、カヅキに似合いそう」
ヒッ、と上ずった声をあげたカヅキを至近距離で見つめて、コウジとヒロがにっこりと微笑む。雑誌の表紙を飾る時のような完璧な笑顔だが、それに喜ぶのはプリズムショーに来てくれるような女の子たちであって、カヅキはまったく嬉しくない。そんなふうに見つめなくていいから、頼むから普通にしていてくれと思う。
けれどコウジとヒロにとって今の状況ではこれが普通なのだった。二年前のあのぎすぎすした関係はなんだったのかと頭を抱えたくなるほど、特にこういう場面では、気が遠くなりそうなくらいふたりは息が合っていた。
「カーヅキっ」
いつの間にかカヅキの背後に移動したヒロが、両手を前へ回してカヅキの両頬を押さえる。
「おい待て、落ち着け」
「落ち着いてるよ。ほらほら、カヅキも落ち着いて、前見て」
ヒロの力は意外と強く、カヅキには前を向く以外の選択肢がない。カヅキの正面ではコウジが膝をついて、食事のときにナイフとフォークを持つように、右手にリップブラシを、左手にルージュを持っている。ベビーピンクのルージュを見せつけるようにカヅキに向けた。
「口紅をつけたらどんな感じなのか、知っておいたほうがいいでしょ?」
コウジがあまりにも堂々と大真面目に言うが、そんなプロ意識はカヅキにはない。
「いい、いらないって! だいたいそういうのなら、み、ミスコンのときにやっただろ……!」
「あれはグロス」
「はあ!?」
「ほら、口閉じて。大丈夫、痛くないから……」
頰を押さえていたヒロが、少し後ろへ引くように手に力を込めた。つられて引っ張られた唇が結ばれて一直線になる。
「んう……!」
逃げ場はなかった。例えば脚を振り上げてコウジを蹴り飛ばしたり、上体を思い切り倒してヒロを突き飛ばしたりすることができないわけではない。けれどカヅキはそんなことをしたいわけではなかったし、物理的に振り払ったところでコウジとヒロはカヅキには理解の及ばない謎の結託によって別の手段で目的を達成しようとしてくる。カヅキはそれをこの二年間で身に染みて覚えたし、その内容にさえ目を瞑ればふたりがそうして楽しそうにしていること自体はひどく嬉しいことなのだった。
「……終わったらすぐ取れよ」
「もちろん」
雑誌の表紙のまま頷いたコウジが、新曲のメロディでも口ずさみそうな機嫌のよさでリップブラシをルージュに滑らせた。控え目なピンクに染まったブラシをカヅキの唇にあてて、その輪郭を縁取るようにゆっくりとなぞってゆく。触れる感覚は優しく、それがカヅキにとってはかえってむずむずとくすぐったかった。
堪えるように歯を食いしばると、見越したかのようにヒロが背後から耳元に口を寄せる。
「カヅキ、少し唇開いて」
「はあ……?」
「そうそう」
開いた唇の隙間に差し込むようにコウジがブラシを伸ばした。描いた輪郭の中を埋めるように塗ってゆく。
一息にやってくれと思うのに、わざとやっているんじゃないかと疑いたくなるほどコウジは丁寧にブラシを扱った。気温が高いわけではないはずなのに気恥ずかしさで体温が上がるのがわかる。
「できたよ」
コウジの言葉にヒロがようやく手を離す。解放されてがっくりとうなだれるカヅキをよそに、ヒロはコウジの隣にしゃがみ込みカヅキの顔を覗き込んだ。
「……いい!」
ヒロが大きな瞳をきらきらと輝かせて賞賛した。なにがそんなにおもしろいのかカヅキには理解できない。
「カヅキは肌の色が濃いから薄いピンクが似合うと思ったんだよ」
「うん、よく似合ってる」
「嬉しくねえよ……」
「どうして? 可愛いよ、カヅキ」
「ああ。すごく可愛い。鏡見る?」
「やめろ! も、もういいだろ!」
寄ってたかって歯の浮くようなせりふを吐くコウジとヒロは心底満足げで、カヅキだけがただただ居た堪れずにいた。痺れを切らしてティッシュに手を伸ばすと、だめだよ、とヒロに手首を掴まれる。
「ちゃんと落とさないと肌に悪いよ。やってあげる」
ヒロはポーチから今度はコットンを出して、クレンジングオイルを滲ませた。そもそもさっきからいろいろと出てきているそのポーチはなんなんだということをカヅキは意図的に考えないようにした。
「あ、それで、この広告だけど」
唇のあたりをひやりとした感触が通り過ぎる。ヒロの手元に目を向ければ白いコットンの一部がピンク色になっているのが見えて、カヅキは思わず視線を逸らした。
「頬や手にキスマークをつけて写真を撮りたいんだって。だから別に俺たちがこれを唇に塗るわけじゃないよ」
ルージュを落としたばかりのカヅキの口元がひくりと震える。
「じゃ、じゃあこんなことしなくてよかったんじゃねえか!」
嫌な予感はしていたのだ。さっきから何度もヒロが開け閉めしているポーチの中に、カヅキに使われたのと同じものがもう二本入っているのが見えた。容器の淵の色だけが違っていて、ひとつは真紅、もうひとつはダークピンクだったのを必死で見なかったことにしていたのに。
そんなカヅキの内面など露知らず、コウジは宇宙の真理を証明したとでもいうかのような顔になった。これが本当に数学の予想を証明したならカヅキも同じ表情になれたのだが、残念ながらそうではない。
「そっか。それなら」
「ああ」
コウジとヒロはステージで歌うときのようにぴったりと声を重ねて言った。
「キスマークをつけられる練習をしたほうがいいね」
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