薄氷に刃

前半は2016/9/25に書いたもの。プリズムキングカップへ向けて練習するヒロ

 孤独の影は、いつもすぐ背後にあった。
 コウジと決別しひとりでステージに立った時も、法月家に引き取られた時も、公園で見よう見まねのプリズムショーをしている時も、アパートの狭い部屋に母親といた時でさえ、孤独はヒロの背を撫ぜる。おまえはひとりで、誰の愛も受け取れないと囁いてくる。
 ヒロはそれに気づかないふりをしていた。正面を向いてさえいれば誰かがいた。それはファンであったり、仁であったり、浮浪者であったりしたが、ヒロが前を見ていればそこには必ず人の姿があった。だからヒロは孤独のつめたい手を取ることはなかった。
 けれど今はどんなに目を見開いても、あたりを見渡しても誰もいない。
 エーデルローズの地下のリンクは、ヒロが練習をしに行くと伝えておけばその時間はいつも無人だ。後輩たちが気を遣ってくれているのだろう。ありがたく思うべきことなのかもしれないが、ヒロにとって誰の目もないリンクはひどく広かった。
 誰かが見ていれば、そこに速水ヒロが生まれる。笑い、歌い、踊る、プリズムスタァの速水ヒロ。どんな過密スケジュールの中にあっても、観客がいるのなら彼女たちを笑顔にするプリズムショーをしてみせる。目の前にファンの目があり、隣にはコウジとカヅキがいて、そうしてそこにヒロの輪郭が浮かび上がるのだ。
 ローズパーティが終わってから、そうやってヒロの形を作ってくれていた存在は幻のようにいなくなってしまった。あまりにも呆気なく、拍子抜けするほど名残の欠片もなく、あの日以降、オーバーザレインボーのいない世界が続いている。コウジは渡米し、カヅキはエーデルローズを離れ、芸能活動を中止したヒロの行く場所は練習場所であるリンク以外になくなった。こうなると決まった時からわかっていたことなのに、ひとりで立ったリンクはあまりにも温度がなく、自分の輪郭が溶けて消えゆくようだった。
 す、と最小限の動作で脚を滑らせ、リンクの上を滑走する。音楽を流さなくたって、コウジの歌は頭の中で鳴っていた。プリズムキングになるんだ、この歌で、完璧なショーをして。そうすればきっと、なにもかもが元どおり。
 身体の中を巡る音楽に合わせて鼓動を感じる。ヒロの輪郭が生まれる。
 腰を低く落とし、ばねのように跳び上がる。いつも通りのことをしたつもりなのに、ジャンプの回転数は少なく、着地に失敗してわずかによろめいた。これが試合ならば減点だ。掴んだはずの自分の姿が、またあやふやになってゆく。
「ああ……」
 着地した脚を慣性に任せてゆるく弧を描くようにさせていると、次第に減速してやがて止まった。頬を切っていた空気が鋭さを失ってどこかへ通り過ぎる。
 ヒロの中をよぎるのは焦りだ。ジャンプに失敗したことや、試合に優勝できない可能性、それらの先に、速水ヒロが死にゆくことを想像して息が詰まる。プリズムショーはヒロのすべてだ。それが失われた時に、ヒロがどうやって形を保つことができるのかわからない。
 そんなことを考えずとも、完璧なショーをして勝てばいい。明快な解答がわかっていても、ブレード越しに立つリンクががらがらと崩れてゆく妄想を止めることができなかった。
 俯いた視界に、リンクに反射した自分の姿が見えた。当然ながらそれはヒロの形をして、ヒロの目を見ている。他の誰に見られてもいない、ただヒロに向き合うだけのヒロの姿。
 それはヒロがずっと感じながら見ないふりをしていた孤独の影だった。

 平気だと思っていた。強がりなどではなく、本当に、自分はやれると思っていたのだ。オーバーザレインボーが活動を休止しても、コウジやカヅキと離れても、ヒロはプリズムキングカップに向けて努力を惜しまないし、それはきっとうまくいき、実を結ぶと信じていた。
 けれどそんなことはヒロの思い込みにすぎなかったのだと、ひとりの時間の中で突きつけられる。
 芸能活動休止後の調整は、お世辞にも順調とは言えなかった。
 この二年間、プリズムショーをする時はそばにコウジとカヅキがいたから、ひとり黙々と滑るのは久しぶりだ。ひとりでリンクに立つことはこんなにも孤独だっただろうかと二年前を思う。コウジと仲を違っていた頃のほうがずっと味方が少なかったはずなのに、なぜか今のほうがひとりぼっちでいるように感じた。それが仲間が増えたゆえのことならば、自分は自分で考えていたよりもはるかに脆いのだと知って愕然とする。
 不安は身体に現れた。周囲にはできるだけ普段通りに振る舞ってみせてはいるが、食欲は落ちたし、夜もあまり眠れない。
「心の不安っていうのは、ごはんを抜いたり、睡眠不足とか、そういう日常的なバランスが崩れることで起きることが多いんだ。だからヒロ、毎日朝昼晩ちゃんとごはん食べなきゃだめだよ」
 そんなお節介なことをコウジが言っていたのは、ローズパーティよりもっと前のことだ。コウジは以前から同じことを心配して、ヒロに弁当を作ってきては食べさせてくれた。ヒロの身体の半分はコウジの手料理でできている。
 コウジは、ヒロがこうなってしまうことをわかっていたのだろうか。もしそうだとしたら、どうして離れていってしまったのだろう。今だってそばで見ていてくれたなら、軽やかにジャンプを跳べたかもしれないのに。
 そんな身勝手なことを思ってしまうのも嫌で、ヒロは大きく溜息を吐いた。コウジは悪くない。ただヒロが不調なだけだ。
 こんなことはコウジにも他の誰にも言えないけれど、ゆうべはとうとう食べたものを戻してしまった。少しでも食べなければと懸命に飲み込んだのに、身体が消化することを拒否している。寮のトイレで声を押し殺してえづきながら、ヒロはまた、自分の足元が崩れてゆくのを感じた。
 悪循環だ。なにもかもが行き詰まっている。練習は思い通りにいかないし、食べられないし、眠れない。そのせいで気持ちは落ちて、また身体に影響を及ぼす。ヒロひとりでは、もはや突破口を見つけられそうにない。
 眩暈のする身体をベッドに沈め、目を閉じる。全身が石のように重い。
 コウジに会いたい、と思った。

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