DON’T NEED TO KNOW

ゲームの「少し、お控えください」のあと。この話の静→怜は恋愛感情ではありません

 肩に触れてきた手は服越しでもいつもよりすこし熱かった。
 身体を支えることを大袈裟だと言ってはみても拒みはしない。撮影中は気を張って普段通りに見えるよう振る舞っていたが、怜治の体調はスタジオへ来る前よりも悪化している。静馬以外の人間は気づかないかもしれないが。
「……怜治様」
 ふらりとよろめいた背に手を添えれば、はっとしたように顔を上げて周囲に目をやる。不特定多数から見られることに慣れた怜治の、もはや習性といってもよかった。
「あと少しですから」
 地下の長い通路を抜けて、通用口に立った警備員と会釈を交わせば、抜けた先は駐車場だ。
 社用車からスポーツカーまであらゆる車種が並ぶ中で、静馬が使っている初心者マークをつけた左ハンドルの車はどうしても目立った。幸い、今は他に人はいない。
 静馬は一度怜治から離れてドアを開けると、後部座席に怜治を押し込んだ。
「眠れそうなら眠ってください。一時間はかかります」
 トランクに積んであったブランケットを渡す。今でこそ車内は噎せるような暑さだが、すぐに冷房が効いて温度が下がるはずだ。狭い空間でもできるだけ身体を冷やさないようにしてほしかった。
 運転席についてエンジンをかけると慣れた振動が伝わる。空調の風向きを変えながらバックミラーを見てみれば、怜治がブランケットを肩にかけているところだった。
 車はゆっくりとスロープを登り、地上の道路に合流する。すっかり日の暮れた都内は四方からネオンが射して、昼とは違う明るさに包まれていた。光は騒がしいのに、会話のない車内はひどく静かでアンバランスだ。その光も高速道路に乗ってしまえば色数は減って、オレンジ色の影がただ尾を引くばかり。
「……ねえ、静馬」
「なんでしょう」
「俺が彼女と親しくするの、本当に良くないことだと思ってる……?」
 怜治の白い頬に、道路の両脇に等間隔に設置されたオレンジ色のライトの光が射しては消える。彼は顔を窓の外へ向けているから、バックミラーを見ても視線は合わない。
「俺はお前が傷つくのが嫌なだけだ」
「……はは、」
 笑い損ねたような、短く不恰好な呼吸だった。
「優しいなあ、静馬くんは」
 ひとの気も知らないで簡単にそんなことを言う。静馬はいちど手のひらを開き、ゆっくりとハンドルを握り直した。
「もう振られてるんだから今更だよ」
 怜治はずっと外を見ている。告白したことは知っていたが、振られたことは初めて聞いた。それが怜治にとって良いことなのか悪いことなのか、静馬には判断がつきかねた。子どものように恋愛をするには、怜治の持っているものは多く、重すぎる。
「それでも彼女の力になりたいんだ。こんなこと、今までなかったのに……大勢のみんなじゃなくて、たったひとり、あの子の」
 怜治の声はだんだんと小さく消えてゆく。静馬に話しかけているというよりは独り言に近かったから、返事はしなかった。
 知っている。その感情に、とてもよく似たものを。
 ひとりの人間に身を尽くし心を砕くのは快感を伴うのだ。すべての基準がそのひと一人きりなのだから迷うこともない。見返りを求めてやっているわけではなくても、焦がれたひとにありがとうと微笑まれたらそれだけで相手のためになんでもできると思える。それはまるで麻薬のような経験だ。知っている。ずっと昔から。
 怜治はそれきりなにも言わなかった。車内が暗くて顔はよく見えないが、シートに深く身体を預けて動かないので眠っているのだろう。
 さしあたって必要なのは、こんな車の中などではなく落ち着ける場所で休息を取らせることだ。静馬は右足を踏み込んで、法定速度の限りまでスピードを上げた。

 諏訪邸の駐車場に車を停めても怜治は起きなかった。
「怜治様。……怜治」
 ブランケット越しに軽く肩を叩くと、ようやく瞳を覗かせる。声のするほうへと向けられた視線が静馬を捉えて、状況を思い出したようだった。
「着きましたよ。具合は」
「さっきよりはいいよ。ありがとう」
 ひとつ大きく呼吸をして、怜治は車を降りる。彼の言う通り静馬の目にも、スタジオを出た時よりはいくらかましな顔色に見えた。
「林檎をすりおろして持って行きましょうか」
「明日になっても治らなかったら頼むよ」
 邸内の灯りを浴びて、ふふ、と小さく笑って目を細める姿は、部長の、あるいはリーダーの怜治のものだ。きっと明日には回復しているだろう。だから静馬の林檎の出番はない。それは喜ばしいことだ。
「おやすみ、静馬」
「お休みなさい」
 帰りが遅くなった日の挨拶を交わして、互いに車から逆の方向へと別れる。
 彼を待ちわびる玄関の奥へ向かう直前、怜治は振り返った。静馬が見送っていることなど初めから知っていたかのようにまっすぐに見て、ゆったりと微笑む。それは一瞬のことで、その表情も、ひらりと振られた手もすぐに扉の影に消えた。
 怜治のそれに比べたらあまりにも少ない静馬のもちものの姿は、けれどそれさえあれば他になにも要らないと思わせるのに十分だった。
 静馬も今度こそ踵を返して自宅へと向かう。自室でだってできることはいくらでもある。今日の仕事のこと、明日の練習のこと、目前に迫った試合のこと、すべてが怜治に繋がっていて、それはたしかに、静馬の悦びのかたちをしているのだった。

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