付き合ってない
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着信音が鳴ったのは日付の変わる直前だった。こんな時間にかけてくるなんて珍しい。なにかあったのかと思いながら通話ボタンをタップすると、こちらの心配などまるで知らない緊迫感のない声が届いた。
『あ。起きてた』
「……なんのご用ですか」
『今から行くから、玄関開けて』
都合も聞かず、それだ言って通話は終わる。幼馴染の気まぐれは今更で、静馬はひとつ小さく溜息を吐くと、寝静まった家族を起こさないようゆっくりと玄関へ向かった。扉の外に人感式の明かりがついて来客を告げる。
鍵を開け扉を引くと、さきほどの電話の主が立っていた。そのまま寝てしまっても問題ないようなラフな部屋着姿で、上機嫌としか言いようのない笑顔を浮かべている。
「怜治、こんな時間に」
「ハッピーバースデイ、静馬!」
怜治は身を乗り出し、静馬の言葉を遮ってそう言った。一年に一度かならず捧げられるお決まりのフレーズに、今日がその日だったかと静馬はカレンダーを思い出す。怜治が間違えるはずがないから、こう言ってくるのなら今日は九月二十八日なのだろう。
「……ありがとう」
言いたいことは他にもあったが、ひとまずは祝われた礼をする。怜治は上機嫌のまま、うんうんと頷いた。
「そのために来たのか?」
「そう。あと、これ」
怜治は背中に回していた手を静馬の目の前に掲げてみせる。そこには白いラベルの貼られた暗い色の瓶が握られていて、怜治が揺らすのに合わせて、たぷん、と中の液体が音を立てた。
「静馬くんが酔ったらどうなるのか見てみたいなーって」
「……どうしたんだ、それ」
怜治は未成年だから、自分が飲むわけではなくてもアルコールは買えないはずだ。万が一買えてしまったとしてもそんな場面をマスコミに嗅ぎつけられたらと思うとぞっとする。
「父さんの部屋から、ちょっとね」
怜治はステージの上でするようにぱちりとウインクした。数多のファンの心を掴む美しい仕草ではあるが、今はそんな話をしているのではない。
とはいえ家の中から持ち出したのなら、少なくとも静馬の懸念したような問題はないだろう。諏訪家の所蔵なら質も保証されている。
目的は達成するために存在するのが諏訪怜治という男だった。彼の今の目的は静馬にそれを飲ませることで、まさか断るはずがないだろうとにこにこしながら静馬が部屋へ通すのを待っている。
静馬は酒瓶を受け取ると、もう片方の手を恭しく家の中へ向けた。
「どうぞ。くれぐれもお静かに」
「お邪魔します」
「先に部屋に行っていてくれ」
「はーい」
静馬が諏訪家の中をよく知っているように、怜治も黛家の中など勝手知ったる、である。静馬は台所へ向かうと食器棚から使えそうな酒器を選び、怜治用に作り置きの麦茶をガラスのコップに入れて盆に載せた。
鎌倉とはいえ観光地からはすこし外れているから普段から騒がしくはないが、夜ともなれば輪をかけて静かだ。廊下を歩く音ですら誰か起こしてしまうのではないかと思う。部屋の戸を引くと、怜治は既にローテーブルの前に腰を下ろしてくつろいでいた。
「あ、その器、うちにもある」
怜治が指したのは静馬が持ってきたびいどろの猪口だ。厚めのガラスの下半分に色とりどりの模様が踊っているのは、夏祭りのボール掬いに似ている。
「へえ。揃いで用意したのか」
「どうせ父さんだろ」
仕方なさそうに肩を竦める。父親同士の仲が良いのは幼い頃から見てきたもので、今更否定するつもりもない。立場に差はあってもよその目がなければ気の置けない友人のような関係で、それは今の怜治と静馬も同じだった。
怜治はそのびいどろの器を向かいに座った静馬に持たせると、酒瓶の蓋を開けた。傾けられた口から透明の液体がゆっくりと注がれる。瓶を持つ怜治の指の陰に、清酒、の文字が見えた。飲んだことはないが知っている香りがふわりと漂う。
「はいっ、遠慮せず飲んで。静馬は明日講義ないでしょ?」
「お前はあるだろう」
「午後だけだよ」
遠慮せずに飲めと言うがそもそもこれは怜治の酒ではないし、講義がないからなんだと言うのか。酔い潰れることを期待されているのなら、それには応えないでおきたい。
静馬は猪口を口元に寄せて少しだけ含んだ。飲む前から酒の香りがつんと嗅覚を支配する。怜治はなにが楽しいのか、前のめりになってその様子を見ていた。
「おいしい?」
「どうかな、他の酒を知らないから……でも飲みやすい」
水やほかの飲み物にはない、嚥下した時に喉のあたりを焼くような熱さがある。残念ながら静馬の舌はこの味の良し悪しをすぐに判断することはできなかったが、酒を飲む機会は今後いくらでもあるはずだし、そのうちわかるようになるのだろう。
時間をかけて何度も猪口を傾けるのを、怜治は麦茶を飲みながら愉快そうに眺めている。そうしているとこの酒よりも麦茶の方がずっと上等なものであるように見えた。
空になった猪口を置くと、怜治が目ざとく気づいてすぐに酒瓶を手に取る。
「まだあるよ。飲む?」
飲む? と訊きながら、静馬が返事をする前にもう注ぎ始めている。静馬は酒の回り始めた頭で、その指先をじっと見た。ストライドを離れてハイタッチをすることもなくなった、今は扇を持つことの方が多い白い手。
「怜治」
呼ぶと怜治は、うん、と視線を落としたまま答えた。小さな器から溢れてしまわないように慎重に注いでいる。
「……怜治」
静馬は床を擦って移動し、怜治の隣に座り直した。ほとんど距離などないような位置で、酒を注ぎ終えた怜治が見上げるように顔を覗き込む。彼の誕生石と同じ色の瞳が、静馬の部屋のなんの変哲もない照明を浴びて爛々と輝いた。
「酔った?」
「……なんでそんなに楽しそうなんだ」
「だって、静馬くんの酔ったところが見たいんだよ」
はい、と有無を言わせず猪口を押しつけてくる。これがアルコールハラスメントかと納得しながら、静馬はまたひとくち飲んで猪口を置いた。これを飲み干したらきっとまた怜治は酒を注ぎ足してくるだろう。
静馬はゆっくりと身体を横へ傾けた。怜治の肩へ寄りかかるようにすると、頭の上からくすくすと笑い声が降ってくる。笑うのに合わせて揺れる肩は骨ばっていて、特段心地の好いものでもない。それでも触れてしまうとなんとなく離れがたかった。
「静馬くん、お酒くさい」
「お前が飲ませたんだろう」
そうだった、と怜治はとぼけて見せながら麦茶を飲む。喉の鳴る音が静馬の聴覚に直接響いた。
「あーあ、あと一年半か。長いなあ」
早生まれの怜治が二十歳を迎えるまでは今日から一年以上かかる。過ぎてしまえばあっという間だろうが、今の怜治にはひどく長い時間に思えた。
「俺も早く酔ったふりして甘えたいな」
静馬はなにも言わない。ただ頭を肩に擦りつけるようにしてきたから、怜治は長い髪を梳くように撫でてやった。
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