巻島と東堂と女と自転車
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「お前が女だったらよかったのによォ」
ぜえぜえと短い呼吸を繰り返す中、普段より低めの掠れた声で織り込まれた言葉に、東堂は云われた意味をすぐには理解できず目を瞬いた。背筋が薄ら寒く感じるのは、びゅうと吹きつけた初秋の山頂の風のせいだけでは、ない。
「……すまない巻ちゃん、もう一度頼む」
滑り落としそうになったボトルに力を込めて、東堂は訊き返した。今日は風が強い、自分の聞き間違いだったら大変なことだ。あるいはついさっきまで本気でヒルクライムしていたから、聴覚と脳が正常に接続していないのかも知れない。
「お前にでかい胸がついてたらよかったのに」
東堂より後に自転車を降りた巻島の呼吸は未だ常態ではなかった。先の科白よりも不機嫌さの増した声でそう返ってきて、聞き間違いではなかったのだと認識する。そうして悪寒は背筋どころか全身へ駆け巡った。目の前の男は一体なにを云っているんだ。
数日前に珍しく巻島から電話を寄越したと思ったら、週末時間作れ、登るぞ、と一方的に勝負めいたツーリングを仕掛けられ、巻島と走ることに異存はないのでその通りにしたらこの有様である。さしもの東堂でも説明を求めたくなる、というより、なんの解説もなしに云われたことを受け入れるには鳥肌が立ちすぎた。
「気持ち悪いぞ巻ちゃん」
「うるせェ。文句があるなら胸のひとつやふたつ生やしてみろってんだ」
「オレに胸がひとつ生えたところが見たいのか?」
「……気持ち悪ぃ」
「それはこっちの科白なんだがなあ」
東堂が呆れた様子を隠さずに零すのを歯牙にもかけず、巻島はボトルのドリンクを飲み干した。山に入る少し手前にコンビニがあったはずだ、帰りに飲み物と食糧を調達しなければ。
からからに渇いている。
「東堂、彼女いねえの?」
「は!?」
「アホみたいなファンクラブがあるなら、彼女のひとりやふたりすぐできんだろ」
今日はやたら巻島の計数が覚束ないが、東堂はもう気にしないことにした。代わりにふふんと得意げな視線をくれてやる。
「今のオレは自転車が恋人だからな。恋人が複数いたら失礼だろう」
「うわあ……」
「なんだいその反応は? ははあ、さてはあれだな、『自転車と私とどっちが大事なの』だな?」
東堂の勘のよさは往々にして巻島にとって喜ばしくない方向へ発揮される。一週間ほど前に食らった科白は要約すると『東堂くんと私とどっちが大事なの』だったのだが、不要な情報だしなにより気に障りすぎるので訂正しないでおいた。
「女子は可愛いが、そちらにばかり構っている暇はない。巻ちゃんだってそれだけのことだろう?」
巻島は声では答えずに視線を逸らし、昨日のことを思い返した。起きて食べて自転車に乗って授業をやり過ごして自転車に乗って食べて寝た。他のことが入り込む余地など、巻島が意識してどれかを削らない限り、どこにもなかった。
「巻ちゃんがどうだったかは知らんが、オレは二重の意味で無理だ。寮生活が想像できるかい」
「……おぞましいな」
心底苦々しげに吐き捨てた巻島の様子に、東堂の笑い声が重なる。おぞましいという表現は半分は正解だし、その意図で云った言葉だが、東堂はそんな寮生活が気に入っていた。そうでなければ、寮生活も部活動も、とてもじゃないが続けられない。
「巻ちゃん、自転車は好きか?」
藪から棒に、と躱そうと顔を上げて、息を呑んだ。なんだその悟りきった顔つきは、と、揶揄するのも負けた気分で、結局。
「好きだ」
「オレもだ」
東堂はそれきり口を開かない。
それ以上の答えはなかったし、求めようもなかった。制服がいやらしく見えるあの大きな胸をせめて触らせてもらっておけばよかったと、一週間前から思っていたことは未だに燻っていたが、それももうポーズのようなものだった。
自転車を柵に立てかけたまま遠くの空を眺めている東堂を横目に、巻島は右足のクリートをペダルにはめる。
「じゃ、帰りはダウンヒルで勝負な」
云うなり振り返りもせずにペダルをぐっと踏み込んだ。背後で東堂がなにやら叫びながら愛車に跨るのを気配で感じる。ぼやぼやしているとすぐに追いつかれる、巻島はギアをシフトしながら引き足にも力を込めた。
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