病める時も健やかなる時も

きちめがキャラを結婚式場で働かせるパラレル。ノマと眼鏡

 視界が薄いヴェールに覆われている。
 ぼんやりと靄がかかったように周囲は判然とせず、ただ白い。眩しいと表現しても差し支えないほど明るくて、克哉は少しだけ目を細めた。
(――何だ?)
 何が起こっている?
 意識を走らせてみれば、辺りはやけに静かだった。物音ひとつしない。やがて白い光の中に七色の光線を見つけ、ステンドグラスの存在に気づく。鮮やかなそれはきらきらと揺れていて、射し込んでいるのが自然光であることを知った。
 この状況から導き出されるのは、ひどく身近な場所だ。誓いの儀式。女性たちの永遠の憧れ。そして、自分の職場。
 教会という聖地は、結婚式を執り行うためだけの場所ではない。だがチャペルを擁する結婚式場で働く克哉にとって、教会といえば結婚式だった。懺悔や日曜の朝の祈りはそこにはない。祭壇に立つ貫禄のある神父と、その正面に緊張を隠しきれない新郎。扉が開かれ、父親と腕を絡ませた新婦が厳かに入場する。ステンドグラスの煌めき、パイプオルガンの歓声――
(白い、ヴェール?)
 急速に自我を取り戻す。
 自分は何をしているのだろう? ここは、どこだ? どこに立って、何を、着て。
 不意に、視界が揺れた。それは翳ったりまた現れたりする太陽によってこの場を照らす光が揺れたわけではなく、もっと近く、眼前にある紛うかたない「白いヴェール」が、風にたなびいたから。
「誓います」
 突然すぐ傍からはっきりとした声が聞こえて、克哉は肩を震わせた。こんなに近くに人がいたのに、今までその気配にすら気づかなかった。どうなっているんだ、本当に、これは、この状況は。
 さきほどよりもはっきりと、今度こそヴェールが揺れた。下からゆっくりと持ち上げられる、その光景はよく知っている。これまでに何百人が、何千人がそうやって、一生を寄り添うたった一人の相手に愛を伝えてきたのだろう。自分はその幸せな一日をサポートする仕事をしていたはずなのに、これではまるで、主役ではないか。
 それにしてもさっきの声には、いやというほど耳に覚えがある。低く、同性の自分からしても色気があり、それでいて凛として、よく通る。どんなに場が喧騒に包まれていても、彼が声を発すればすぐにわかった。その声が、今すべき最良の指示を飛ばすことを、職場の誰もが知っていた。
 もどかしいほどにゆっくりと、ヴェールは上へ払われてゆく。ようやく霞が晴れた視界に白い衣装の足元が見え、思わず笑みが漏れた。
 白いタキシード、って。オレたちが着るべきは、黒の燕尾服だろう?
 心の中でそう突っ込んでいると、俯いたままでいることを咎めるように、あの声が囁いた。
「こんな時だというのに、随分と余裕のようだな?」
 ああ、やっぱりオレはその声を知っている。
 今、オレの目の前にいるのは――

「いつまで布団と抱き合ってるつもりだ?」
 夢の中で聞いたような、そうでないような声が聞こえた途端、瞼を閉じたままの視界が夢の中よりも明るくなった。《佐伯》がベッドのすぐ傍のカーテンを思い切り開けたせいだ。窓ガラス越しに外の冷気が伝わってきて、オレは羽毛布団を頭からすっぽりと被り直す。
 すると。
「そんな抵抗は無駄だと、お前もわかっているだろうが」
 しっかり握りしめていたはずの布団が、あっさりと剥ぎ取られた。広いベッドの上でできる限り適温を保とうと丸くなっているオレはちょっと間抜けに見えるだろうけれど、そんなことを気にする相手でもないので気にしない。
「……寒い。眠い」
 寝起き特有のはっきりしない声が出た。職場でこんな声を出していたら怒られるだろうなあ、と微動だにしないまま考える。
「そんな理由で遅刻する気か。お前は仕事をなんだと思ってる」
 ああ、まずい。職場に行く前から怒られてしまった。
 それでもまだ瞼は閉じたままだったオレの頬に、ぺたりと冷たいものが触れた。
「ひぁ……っ」
 反射で逃れようとしたオレの本能は正しい。ただでさえ寒いのに、そのうえ更に冷たい手で包まれたのだ。逃げるのは普通だ。逃げられるかどうかはまた別の問題なのである。
「目が覚めたか?」
 抵抗虚しく反対側の頬も包まれ、顔面積の半分以上をホールドされてしまって渋々瞼を上げる。機嫌の悪そうな、「なぜ俺がこんなことをしなきゃならないんだ」って顔で睨まれて、オレは時間が結構ぎりぎりだってことを知った。慈悲のかけらもない両手が着実にオレの体温を下げていく。
 それにしてもこんなに寒いっていうのに、なんでこいつのシャツはこんなにはだけてるんだ?
「覚めたよ。起きる。起きるってば」
 だからこれ以上その冷たい手で触らないでくれ!
「それはよかった」
 にっこりとお客様用の笑顔を向けられて、オレはようやく解放される。
 《佐伯》はひと仕事終えたとばかりにすっきりした表情でシャツのボタンを留めている。それはもちろん職場の制服で――家と職場が近いのでシャツだけは着ていく。ジャケットやズボンは更衣室で着る――既に髭を剃り髪を撫でつけているこいつは、あとは眼鏡さえかければすぐにでも仕事を始められそうだ。
「……伊達眼鏡のくせに」
「何か云ったか?」
「なんにも……」
 相変わらず眠いし寒いけれど、そんなことは云っていられない。数時間後には愛で結ばれた男女が神の前で永遠を誓い、それを衆目に自慢するパーティが開かれるのだ。
 オレたちは、病める時も健やかなる時も(もちろん病気なんてしない方がいいけれど)その日を最高の一日にするべく全力を尽くすだけ。
「よしっ」
 がば、と勢いをつけて身体を起こす。見ると、あいつは煙草に火をつけているところだった。深く息を吐いて瞼を伏せるその顔は、眼鏡がないとやっぱりいつもより少しだけ幼い。
「起きたなら早く支度しろ。ミーティングに遅れると御堂が煩いぞ」
「わかってるよ」
 気温はまだ低い季節だが、外を見やれば雲ひとつない晴天。最上階のチャペルにはまばゆい光が降り注ぎ、テラスでのライスシャワーを彩るだろう。新郎の白いタキシードも、新婦の純白のドレスも、銀色の指輪もきっとすごく映える。
 幸福に包まれた夫婦の手伝いをできることが嬉しい。いつもなら素直にそう思えるのだが。
「なあ、変な夢を見たんだ」
「ほう。どんな?」
 たいして興味もなさそうな返事が来た。どんな、って?
 なぜか結婚式をしていて、なぜかオレが新婦で、なぜか新郎の声には聞き覚えがあって。――などとは云えないので端的に伝えることにする。
「……オレが結婚する夢」
「ぶっ」
 噴き出してそのまま煙草の煙で噎せるというのは予想していなかったリアクションで、ちょっと驚いた。けほ、と何回か咳をして、胡乱な目を向けられる。
「結婚? お前が?」
「似合わないって云うんだろ、わかってるよっ」
「似合う似合わないの話じゃない。そういう夢を見るのは相手を見つけてからにしろ」
 もっともすぎるツッコミに返す言葉もない。
「早くしろ。あと五分だ」
 五分前と聞くと気が引き締まるのは、悲しいかな職業病だ。
 あいつに一蹴された夢のことは無理矢理意識から追いやって、オレは洗面所へ向かった。

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