佐伯克哉の憂鬱(未完)

 そして、五月がやってくる。
 きっかけは、とても些細なことだった。果たしてこれをきっかけと云っていいものか怪しいところだけど、他にはなにもなかったのだから消去法でこれしか残らない。
 オレが《佐伯》に話しかけたのだ。
「なあ、いろんな眼鏡かけてるけど、それって何か違うのか?」
「眼鏡?」
 そう、《佐伯》のかけている眼鏡は日によって微妙に変わるのだ。あるときはセルフレーム、あるときはノンフレーム、あるときはアンダーリムと、何種類かの眼鏡をかけているところを見たことがある。眼鏡は実用品なのだからひとつあれば十分な気がして、《佐伯》のやっていることは不思議だった。
「なにかおかしいか?」
「いや、おかしくはないけど……」
 どれもすごく似合っているから文句などない。裸眼で十分生活できるオレにとっては、ある意味憧れだ。
「度が違ったりするとか?」
「度は変わらない。だが、そうだな、強いて云うなら」
 《佐伯》が眼鏡の奥の目を細めてオレを見る。形容しようのないざわめきが背中を這い上がって、オレは彼から目が離せない。
「見るべきものを、見落とさないためとでも云っておくか」
 結局、わかったのは《佐伯》は哲学に造詣があるらしいということだけだった。

「全部のクラブに入ってみたってのは本当なのか?」
 それ以来、ホームルーム前のわずかな時間に《佐伯》と話すのは日課になりつつあった。とはいえ《佐伯》的にどうでもいい話にはノーリアクションなので、話題には毎回気をつかう。
「どこか面白そうな部があったら教えてくれよ。参考にするからさ」
「ない」
 《佐伯》は即答した。
「全くない」
 駄目押しして、オレにだけ聞こえるくらいの控えめな吐息を漏らした。ただの溜息のはずなのに妙に色っぽくてちょっとどきっとする。《佐伯》はそんなオレを気にもとめずに続けた。
「高校に入れば少しはマシかと思ったが、これなら義務教育時代となにも変わらないな。入る学校を間違えたか?」
 どうしてオレに訊くんだ。
「運動形も文化系も全く普通の部活動しかない。これだけあれば少しは面白いクラブがあってもよさそうなんだが」
「どんなクラブなら面白いんだよ」
「俺が気に入るようなクラブなら面白い、そうでないのは普通、決まっているだろう」
 そんなことが決まってるだなんて初めて知ったよ。一度聴いたら忘れられない耳障りのいい声でそんなことを云われると、反論する気も失せてしまう。
 オレが持ち出した話題のせいで《佐伯》は不機嫌になったらしく、この時の会話はこれで終了した。

 そんな他愛のない会話を学校生活の合間で交わしていることが、周囲の目には奇異として写ることをオレはよくわかっていなかった。
「克哉、お前最近《あっちの佐伯》と仲良くねえ?」
 例によって一緒に昼食を食べている時、本多が少し訊きにくそうにそう訊いてきた。どうやらまだあの根も葉もない噂について心配してくれているらしい。
「俺、《佐伯》が人とあんなに長い間喋ってるの初めて見たぞ。お前、なに云ったんだ?」
 さて、なんだろう。適当なことしか訊いていないような気がするんだけど。
「そんなはずはない。あいつは他人に話しかけないし、こっちから話しかけても返事は二文字か三文字っていうのは有名な話だぜ」
「二文字か三文字?」
「イエスかノーだ」
 まさか、とオレは笑う。少なくともオレと《佐伯》の会話の中にそんな単語が出てきた記憶はない。
「私にも聞かせてくれないか」
 突如頭上から第三者の声が降ってきて、箸を動かす手が止まる。本多も同じように手を止めて、怪訝そうな表情をオレの斜め上にくれた。《佐伯》に負けず劣らぬ美声の持ち主を、オレは一人しか知らない。
「私がいくら話しかけても、本多君の云うように二文字か三文字の返事しか返ってこない。君は一体どんな魔法を使ったんだ?」
 盗み聞きかよ、と本多がぼやいたのを御堂さんはきれいに流す。
「コツでもあるのか?」
「そんな、コツなんてないですよ。特別な話をしているわけでもないですし」
「ほう?」
 御堂さんはオレの言葉の真偽を確かめるように顔を覗きこんだ。《佐伯》にじっと見つめられた時と似たような居心地の悪さを感じて、オレは曖昧な笑顔を返す。
 こちらを見ていた真顔だった表情が、ふ、と緩んだ。
「そうか。まあ《あちらの佐伯》がクラスで孤立しているわけではないのなら構わないんだ。彼が君という友人を得たのなら、私が口を出すこともあるまい」
 滑らかで優しい声でそう云うと、御堂さんはオレたちの席から離れていった。どうして御堂さんがまるで委員長みたいな心配をするのかというと、委員長だからだ。
「友人、ね……」
 本多が止まっていた箸を再び動かしながらそう呟く。オレはそれに返す言葉を持ち合わせていなくて、右に倣って卵焼きをつまみ上げた。

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