会いたい
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歪な月が真っ赤に染まって、それはまるで、溶けそうに熟れた柘榴の実のよう。
いつからか、こんな夜は酷く胸がざわついて、足早に帰路を辿るようになった。
原因なんてわかりきっている。狂っている、と克哉は声には出さずに呟いた。風が克哉を嘲るように耳障りな音をたてて鼓膜を叩く。
嗤いたければ嗤えばいい。そんなことが代償になるのなら、世界中の誰に蔑まれたって構わない。
――他の、誰に、蔑まれたって。
降車駅で降りるとその気持ちはもうどうしようもないほどに膨れ上がって克哉を支配した。全力で駆け出すと、いくら外回りを重ねた身体でも息が上がる。しかしそんなことは今は些細な問題にすらならない。アパートに着いて部屋の前で立ち止まり、ようやく自分の呼吸が荒れていることに気づいても、克哉はなんとも思わなかった。
鍵を差し込む手が震えるのは、急に冷えるようになった秋の夜のせいなどではないと自覚していた。アパートの廊下を照らす灯りがドアに自分の影をぼんやりと映し出していて、それが余計に克哉を急き立てる。
(だめだ)
こんな、輪郭の曖昧な、掴めない、温度のない、喋らない、亡霊みたいなものを見たいわけじゃない。そんなものには心動かされない。
触れたいのはもっと、ずっと確かな。
(期待しちゃ、だめだ)
永遠とも思える間、かちゃかちゃと小刻みに金属音をあげていた鍵が、がちりと嵌まって克哉を部屋へと迎え入れた。薄いドアを隔てて充満していた、慣れた自分の部屋の空気を深く吸い込んで息を詰める。
探るように暗闇へ目を凝らす。そこにあるのは、朝出てきた時と変わらない、冷たい部屋。狭い玄関の隅には、突然の雨に襲われる度に購入したビニール傘が三本立てかけてある。休日に散歩する時に使っている履き潰したスニーカーは、青白い闇の中で静かに存在感を放っていた。
一人暮らしの家に、一人用の靴。なにも不思議なことなんてない。これは、いたって、普通の光景。
(だから、期待しちゃ、だめだ)
そう繰り返し言い聞かせても、鼓動はいうことをきかない。
(でも、あいつが来ていても、知らない靴があったことなんてないだろう?)
けしかけるようなもうひとつの声を、頭を振りかぶって必死で追いやる。
自分の家なのに息を殺したまま、極力音をたてないようにして靴を脱ぎ、部屋に上がる。フローリングが克哉の体重を受け止めて微かに鳴り、それがやけに大きく聞こえて肩が跳ねた。
キッチンを抜けて、祈るような気持ちでそっとリビングを覗き込む。
カーテンを引かない薄闇の中、『彼』はいた。
ベッドに背を凭れさせ、表情を消した横顔に思わず息を呑む。整った顔立ちは部屋の冷たさも相まって、作り物のように見えた。長い指に挟まれた煙草の火が蛍のように浮かび上がり、彼がゆるりと腕を動かすのに沿って宙を飛ぶ。
立ち尽くしたままの克哉に、彼はゆっくりと首を回し、焦点を当てた。
(――――ああ、)
冷淡にすら見えた眼鏡越しの眸が温度を湛えて克哉を捕らえる。口の端を上げて笑みの形を作るのを見て、克哉はぎゅっと掌を握りしめた。爪が食い込んで痛覚を刺激する。夢じゃない。
目の前の、夢にまでみた人物が、何度も何度も反芻したその声で、克哉に声をかける。
「早かったな……お帰り?」
克哉の手から鞄が零れ落ちて、そのまま床に転がった、その音は聴覚の遥か遠くに。
「――ただいま」
彼が背にした窓の向こう、朱く爛れた月が見えた。
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