moonlight

神父眼鏡とバンパイアノマ。限りなくノマメガ

 空気は生き物の存在を黙殺するかのように冷たく、全身を包み這い回っていた。目の前には、いつも自分が立っている祭壇。今は当然のように誰もおらず、黒ずんだ木の色が夜の中で不気味に月の光を受けている。
 ぞく、と背筋が震えた。冷たい指で後ろ髪を掴んだ、その乱暴な仕草に。
 幾つかの咬み痕が残っている、いつもは髪に隠されている首が無防備に外気に晒される。
「――――ッ!」
 その一瞬の衝撃の耐え方も、もう知っていた。
 例えば目は閉じないこと。例えば反射で力んでしまう身体を硬い木製の長椅子に沈めること。例えば彼の人を――職務とは関係なく、愛おしいと思うこと。
 咬みつかれた痛みが過ぎ去ったと認識する頃には――それは麻痺した状態かも知れなかったが――その痛みの痕を指と同じように冷たい舌が這って、そのまま味わうように求めるように、傷を抉るようにして傷を何度も嬲ってゆく。その場所を中心にして首筋がじわじわと熱をもつのがわかった。
 そんなに強い力で押さえつけなくても。思って、背後から回された腕、青白い手を見下ろす。
 彼と自分は双子のように外見が酷似していた。ただ彼の方が自分などよりもよほど神父に向いていそうで、そんな相手が牙を剥いて一心不乱に俺の血液を貪っているという倒錯性に、いつもどうしようもなく興奮してしまうのだった。
 耳のすぐ後ろで声もなく、ただ自分の血肉を貪る荒い呼吸と水音が聞こえる。普段の、いっそ甘やかなまでに優しい声はどこへ行ってしまったのだろう。
 背後に立った彼から肩を抱きこむようにされているので、背中が木製の長椅子に押しつけられて痛かった。おかしな話だ。咬みつかれて血を吸われているというのに、そのことよりも背もたれの硬さが痛いだなんて。
「――何……?」
 知らず零した笑いに身体が揺れて、それに気づいた彼が吸血行為を一旦止めて顔を少しだけ上げた。耳元で濡れた声に短く問われる。つんと自分の血のにおいが嗅覚に染みた。
 こんな状態でなければ穏やかに笑みを湛えている顔が、今はひどく艶めかしい。
「こっちの話だ。いいからお前はさっさと血を吸え」
 俺の顔色を窺うこともせず、彼はまた、血の滴る傷口に唇を寄せた。じゅ、と強くそこを吸い上げられて思わず顔を顰めてから、それと同時に、ん、と声を出してしまっていたことに気づいた。彼につられるようにして息が上がるのはいつものことだった。
 今度は顔を上げることもなく、俺の血を啜りながら彼がまた訊く。
「……痛い?」
 痛いか、なんて。
「それは、気にしても仕方のないことだろう」
 愚問にもほどがある。まるで俺の血を吸わなければ死んでしまうとでも云うかのような熱い声で、そんなことを訊いてどうするつもりだ。
 ――ああ、きっと。
 もし俺が痛いと訴えたなら、こいつは何度も謝りながら、それでも傷に牙を突き立てることをやめないのだろう。そういう、生き物だから。
 気づけば彼が来る直前、この場を支配していた冷たいだけの大気はその様相を変え、奇妙な熱と血のにおいが充満している。そして何よりも互いの、呼吸とよぶには過剰な息。
 狂っている。また笑いが漏れた。
「お前がそんなに美味そうに俺の血を吸うから」
 傷口の周囲を包み込むようにして歯が立てられ、がり、と搾り取るように吸い上げられる。ずるずると品もなく、一滴も零すまいと啜られて身体が震えた。それをなだめるように彼の腕は力を強めて、背骨が軋む。
 吸血を終えたらしい彼が唇を離して、また近づいた。熱い息がかかる。バンパイアでも呼吸に熱が宿るのか。そんなことに関心していると、まだ血がにじんでいるであろう傷をべろりと舐め上げられた。その舌は不思議なことに冷たかった。
 背を痛めつけ続けていた腕の檻がゆっくりと解かれ、彼が離れる。こつ、と彼のブーツのかかとの音が一回だけ。
「終わり、か……?」
 貧血気味でぼんやりとしたまま、ゆっくり振り返る。歩幅一歩分の距離にその影が浮かんでいた。
 闇に慣れた目に、その姿は壮絶だった。同じ造形をしているように見えるのに、こんなにも違うものなのか。
 黒い影、白い頬、窓から遮るものもなくまっすぐに射している月の光に照らされて、蒼灰色の瞳は硝子玉のように透き通っている。金色の髪はまるで天使のそれと見紛うほどに美しく、そしてなによりも唇が――俺の血で、赤く。
 その口の端から筋を描いていた血の残りを、彼がぐい、と自分の手で拭って、舐めた。
 ごくりと喉が鳴る、これは自分が生唾を飲み込んだ音だ。欲情していた。彼にこうして血を吸われることには慣れたはずなのに、毎回どうしようもなく欲情している自分がいるのだった。神父である自分が、夜毎教会の中で吸血されて、聖域を血のにおいに染めて。そして、そのことに興奮している。それは明らかな欲だった。
 だからといって何か行動を起こすことはない。彼はここへ来て、俺はそれを待って――俺は本来待つことは苦手なはずなのに、こればかりはいつまでだって待てる確信があった――、一連の吸血行動がおこなわれて、彼が去る、その繰り返し。それだけで俺の中には、薄暗くにじみ出るような悦びが生まれるのだった。
 あるいはそれはただ朦朧としている意識や血のにおいに惑わされているだけなのかも知れなかったが、そんなことが問題なのではない。
 目の前の〈オレ〉が俺にこの欲を与えていることだけが、重要なのだ。
「うん……」
「足りたのか? 足りなければまだ、」
「いい。足りてるよ」
「そうか。なら」
 オレがさっきまで荒々しく俺を貪っていたとは思えないほど平然とそこに立っているのに対し、俺の身体は未だ動かず、喉が乾いているのか声は涸れていた。情けないことだ。ただの人間でしかない自分と彼を対比させるのがそもそもの間違いなのだと、理解してはいたがそうせずにいられない。
 こんなにも似ているのに、こんなにも、遠い。
「また明晩」
 ここにいるから、という俺の言葉を最後まで聞くこともなく、彼の姿は風の隙間に消えた。
 そっと首に手を伸ばして、彼が咬んだ傷をなぞる。赤く染まった指先を舐めると、蜜よりも甘い味がした、ような気がした。

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