純粋理性批判

「渋谷」
 病室は嫌になるほど静かだった。見舞いに来た方が病んでしまいそうだ。
 ベッドの上で俯いたまま動かない親友の姿は、数日前に見舞った時からまるで動いていないように見えた。
 目が痛くなりそうな白さのベッドの縁に腰掛けて、ずいぶんと伸びてしまった黒い髪の持ち主を伺う。瞳は閉じてはいないが、閉じていないだけだ。村田のことも、この病室も、視界に入っているはずの彼の手足すら目に映ってはいないのだろう。
「忘れてしまえば楽になれるなんて、誰が考えたんだろうね」
 ぽつりと落とした声を、拾う者はいない。
 有利は課せられたものの重圧に耐え切れずに潰れてしまった。あんなにも心を砕いた自分の国や臣下たちのことを記憶の底に埋めて、それを代償にして命だけは守った、そんなふうに見えた。
 この世界の大半の者は眞魔国のことを知らないし、知っていても何が起きたかを詳細には知り得ない。あるいは村田が有利の感じた痛み苦しみを語り聞かせたとしても、有利を壊したもののすべてを真に理解することは不可能だ。
 有利は忘れることを選んでしまった。今、この世界で、覚えているのは村田だけだ。
 今の有利の姿を見る限り、忘れて楽になれたとはとても思えない。かといってすべてを覚えている自分の方が幸福かといえばそうでもない。有利の苦しみは有利のものだし、村田のそれも同様だ。
「……一介の高校生に背負わせるには重すぎたんだ」
 大切な親友を壊してしまった根源はわかっている。けれど例え眞王を責め償わせたとしても、有利の明るく笑う姿が戻ってくるわけではない。
 泣くことにはもう疲れてしまった。今はただただ悲しくやるせない。大賢者と呼ばれ崇められようと、友の意識を取り戻す術すら持たない自分の非力さが呪わしい。
「せめてきみの見ている夢が、幸せなものだといいけれど」
 村田はそっと指先の皮膚の表面だけで、掠めるようにして有利の髪を梳く。前髪の隙間から覗いた顔がぴくりと反応したような気がしたが、願望にすぎないかもしれなかった。

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