純粋理性批判

「誰のもとにも訪れる」に至るまでの妄想

 もはや開戦は避けられない。
 国の誰もがそう理解していた。王佐も、宰相も、護衛も、婚約者も、娘も、何千何万の兵士も、そしてその何倍もいる民たちも。長く平和を維持してきた眞魔国に、戦火がやってこようとしている。
 ユーリだってわかっていた。ただ、どうしても認めたくなかっただけだ。
 王としての自らの姿勢が今や理想にすぎないことを。これまでにやってきたことが実を結ばなかったことを。
 できる限りのことはやった。 ユーリの判断だけではない。有利とは比べものにならないほど優秀な臣下たちの意見を聞き、状況を見、戦わずに済むようにと城の者がみな力を尽くした。誰も傷つけないよう、傷つかないようにと祈りながら。
 それでも国境近くの村の、兵士でもない民たちを攻撃されては、手をこまねいていることはできなかった。
 十貴族会議を開くまでもない。いつもの執務室、いつもの顔ぶれに囲まれて、ユーリはただ黙り込んだ。考えるための時間ではない、決意するための時間だった。
 ここで攻撃を許してしまえば、次はもっと大勢の軍を率いて敵は眞魔国へとやってくるだろう。そうなれば、今回よりも多くの血が流れる。そしてその次は更にもっと多くの犠牲が。
 ユーリが決意を口にするまでの長い時間、その場にいた者はただ黙って待っていた。自分たちの王の命令を。まったく優秀すぎて惨めな気分になる。そんな彼らがいるから今までやってこれたのだし、この先もきっと大丈夫だと言い聞かせた。
 からからに渇いた喉で息を深く吸い込む。自分の一言で何万の兵士が動いて眞魔国のために命を賭すのだと考えると怖くてたまらない。それでももう逃げ出すことはできない。ユーリはこのゲームの中心にいて、選手は試合が終わるまでマウンドを降りることを許されないのだ。
「……国境の警備を三倍に。眞魔国には一歩も入れるな。絶対にだ。絶対に守ってくれ」
 ――一歩でも踏み込んだら殺せ。声には出せなかったが、間違いなく伝わったはずだ。
 命令は迅速に遂行された。

「申し訳ありません」
 執務室から自室へ戻る長い廊下を歩く中で、一歩後ろについていたコンラートが小さく、はっきりと言った。なにか覚悟するような冷たい声にユーリが振り返る。大シマロンの軍服を脱いで久しい魔王専属の護衛が、いつもの笑顔を作ろうとすらせずに立ち止まり、いちどユーリと目を合わせてから跪いて頭を垂れた。
「コンラッド?」
「……俺が、もっとうまくやれていれば、あなたにあんな決断をさせることはなかったのに」
 うまくやれていれば。その言葉に、数年前のあまりいい思い出とは言えない光景が脳裏に蘇る。
 国境を越えて剣を振るってきたのは大シマロンの兵だった。人間だ。ユーリやコンラートの半分をつくっている種族が、魔族の国に刃を向けたのだ。
 ユーリはずっと、種族間の諍いはなくせると信じていた。信条に従って行動してきたし、成果も少なからずあった。コンラートは誰よりもその意志に理解を示し付き従い、己の身や出自のすべてを利用してユーリの理想を叶えようとした。互いに血を吐くような思いをしながらも、争いのない未来のためと歯を食いしばり乗り越えてきたのに、いま、戦争が始まろうとしている。
 俯いたままの顔の前に右手を差し出す。コンラートは傷と剣胼胝でいびつな手のひらで目の前の王の手をすくい、指先に唇を寄せた。
「コンラッドのせいじゃない」
 言うと、触れられた手に力がこもる。そのまま今度は彼の額へと押しつけられた。ユーリの手で茶色の前髪がかき分けられて、顰めた眉と閉じた瞼が見える。その表情には彼の兄の面影があった。
「あなたのせいでもありません」
「……ありがとう」
 気休めだ。この国のすべてはユーリに委ねられている。命も、未来も、なにもかも。
 それでも立ち上がったコンラートが普段の、平和で仕方なかった頃と同じ笑顔を見せたから、その言葉を信じてしまいそうになった。親のような兄のような、慈しみだけでつくられた彼の笑顔は無条件でユーリを安心させようとする。すこしだけその胸に頭を預けていれば、その間になにもかも解決するような気がしてしまう。
 けれどもう、そんなことをしても誰のことも救わないと知っていた。
 再び歩き出したユーリの後にコンラートが続く。ひとけのない廊下に、軍靴の音が控えめに響いた。
「ユーリは優しすぎるから心配だ」
「あんたほどじゃないよ」

 ウェラー卿に出陣を命じたのはユーリだ。
 軍籍に属さず魔王にだけ跪く彼を動かせるのはユーリしかいない。だから、コンラートの使い方を間違えるわけにはいかなかった。ユーリ個人にとっては頼りになる護衛でも、国として国防軍として考えれば現場に向いた実力のある指揮官であることは、これまでさんざんに思い知らされていた。
 ユーリは城にいて迂闊なことをしない限り安全が保障されている。そばにコンラートがいなくとも。もしも城にいるユーリが敵の手に落ちたなら、それは国が落ちるのと同義だ。
 こちらから敵地に攻め込むことはしたくなかった。だから国境で絶対に攻撃を食い止めなければならない。山で、森で、川で、海岸線で、自国に火種を持ち込もうとする輩を止めなければならない。
 防衛強化について話し合う宰相たちの話を聞きながら、ユーリが命じたことはひとつだけだった。
「ウェラー卿はルッテンベルクへ」
 全員の視線がユーリへ向くのを意図的に無視した。王佐がなにか言いたげに口を開いて閉じる。
 命じられた当人はゆっくりと手本のような最敬礼をして、拝命賜りますと答え、その日のうちに王都を発った。

 血盟城は静かだった。ここにいれば少なくとも、剣を向けられることも、弓矢を放たれることもない。
 そんな場所で城壁と兵たちに守られたまま、小さな交戦の報告が各地から届くたび、ユーリは心臓を少しずつ削られている気分になった。自分の身は安全でも、見えない断頭台に押さえつけられているようだった。いつかこの首にまっすぐに刃が振り下ろされるのだと、いつ起きるかもわからない断罪の時を待ち続ける日々に、じわじわと精神がすり減ってゆく。
 目に見えて疲弊しているのか、グウェンダルに少し休めと言われた時は断りきれずに真昼のベッドに倒れこんだが、うまく眠ることなどできなかった。
 万一の事態を避けるためグレタをカヴァルケードに送ると決めると、二人の父親に似て頑固に育った愛娘は聞き分けよく頷き、ユーリの顔じゅうにキスをした。
「ぐっすり眠れるおまじないよ」
 そう言って目元に贈られたキスの感触は、けれどいくら思い出してもユーリを眠りに誘ってはくれない。
 決断を下してからの日数を数えるのをやめた頃、けたたましい音を立てて執務室の扉が開いた。ほとんど全速力で駆け込んできた兵士が、転んだのかと思うような勢いでユーリの足元に跪く。汚れを落としもしない格好の中で、青い瞳が際立って見えた。夕焼けのように鮮やかなオレンジの髪も今は土埃でくすんでしまっている。
「陛下に申し上げます」
 ヨザックが張り上げた声が部屋中に響く。聞きたくない、と咄嗟に思った。こんな、こんな声で告げられる言葉が、いい報せであるはずがない。
 思わず耳を塞ごうとした手が、続く報告に中空で止まる。
「ウェラー卿コンラートが斃れました」
 水を打ったように、世界がしんと静まり返った。
 ひゅう、と喉から耳障りな呼吸の音がする。音がするのだから呼吸をしているはずなのに、息が詰まったように声が出せない。自分がなにを言おうとしているのかもわからなかった。
 ヨザックはそれ以上のことを言わず、ユーリの反応を待っている。よく見ると頬にも腕にもまだ新しい傷があった。彼は、彼らはルッテンベルクでどんなふうに戦ったのだろう。
 ざわざわと腹の中を吐き気が込み上げる。は、と一旦短く息を吐いてから、やっと出たのは短い声だけだった。
「嘘だ」
「陛下」
「どうしてヨザックが来るんだ。報告なら隊長が来るべきだろう。コンラッドはなにをやっているんだ」
「陛下」
「コンラッドを連れてこい」
 床についたままの拳をヨザックが強く握り込む。
「……お望みならすぐにでも運びますが、あいつはあなたにだけはあんな姿を見られたくないかと」
 ヨザックの発言がユーリの脳を通り過ぎていく。言葉の意味はわかるのに、彼がなぜそんなことを言うのかがわからない。
 運ぶだなんて、まるで物みたいな言い方だ。
 もしかしたらユーリの伝え方がなにか足りていないのかもしれない。ユーリはただ、コンラッドが帰ってきたなら会って話したいだけなのに、それがヨザックには伝わっていないように思う。
 もっとちゃんと伝わるように話さないと。対話を諦めたらだめだ。ずっとそうやってきたのだから。
 必死に考えようとして、けれど思考は身体に邪魔をされた。浅く呼吸を繰り返す音がうるさい。水に潜ったあとのように酸素が足りていない感覚がして、頭がぐらりと大きく揺れた。
「陛下」
 少し離れたところにいたはずのギュンターがいつの間にかすぐそばに来ていて、長い腕を伸ばしてユーリの両肩を掴んだ。長く文官を務めている男の手は存外に力強く、そういえば彼もまた武人なのだと思い返す。
 いつもならユーリに指一本触れただけで歓喜に震えるギュンターが、今は至近距離で乞うような顔をしている。
「地球へお戻りください。ここよりはずっと安全なはずです。大丈夫、私たちが必ず陛下のこの国を護ります」
 彼らしからぬ早口でそう言い切った。進言ではない。まるで既に決まったことを伝達しているようで、ユーリに選択肢はなかった。
「なんで」
 なぜ今、そんなことを言うのか。こんなに逼迫したこの状況で。
 返答は別の方向から聞こえてきた。
「眞魔国が安全ではないからだ」
「グウェンダル」
 いつも頼もしく感じていた低い声が、今はユーリを責めているように聞こえる。一方でそうではないとわかっている自分もいるのに、落ち着くことができない。
「おれが役に立たないからか」
「陛下」
 宰相が諌めるようにユーリを役職で呼ぶ、それすらも心を逆撫でる。
「おれが、ちゃんとした王様じゃないから、戦争を止められなかったから、だからみんなそうやって、……コンラッド、も、」
「ユーリ!」
 この部屋の中にあっては高めの声で呼ばれたのに振り返ると、痺れを切らしたとでも言いたげな表情でヴォルフラムがつかつかと近づいてきた。震えるユーリの手首を掴んで――この時初めてユーリは自分が震えていたことに気がついた――引きずるように扉を出る。ユーリの身体はまだ思うようにならず、かろうじて脚を動かしヴォルフラムについていくことしかできなかった。
「ヴォルフ、おい、」
「いいか、お前はぼくたちの王だ。臣下が王を護るのは当然のことだ。誰もお前を責めたりしない。コンラートも」
 びくりと反応したユーリの手を、ヴォルフラムが強く強く握り締める。
 話しながらヴォルフラムは歩き続けた。頬を撫でる空気が変わって、中庭を目指しているのだと気づく。なんのために中庭へ行くのかも。
「ヴォルフ。ヴォルフラム」
「ユーリ」
 水の流れる音が聞こえてきた。噴水が、陽の光を浴びてきらきらと輝いている。
「ぼくが死ぬのは嫌か?」
「当たり前だ!」
「そうか」
 なにを今更、聞くまでもないことを訊かれているのかと思う。ヴォルフラムも、他の者も、誰が死ぬのも嫌だ。考えるだけで四肢が引き裂かれるようだった。
「ぼくもユーリが死ぬのは嫌だ」
 ヴォルフラムは力の入らないユーリの身体を噴水のすぐそばに立たせ、肩を押した。よろめいた身体は簡単に水の中に落ちる。
「ぼくたちの王はお前だけだ。必ず護る。必ずまた呼ぶから」
 返事をしようとして開いた口に水が流れ込み、苦しさに思わず目を瞑った。
 目を閉じてはいけないのに、言葉を伝えなくてはいけないのに、なにひとつできないままユーリの身体は水の底に連れ去られた。苦しくて仕方がないのは水のせいではない。

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