ハチミツがけメイプルシロップの砂糖漬け

ルキーノとベルナルドとジャン。ルキーノ幹部就任直後くらい

 ノックを二回。すぐにドアの向こうから「どうぞ」と無愛想な声が許諾し、グレゴレッティはノブを捻る。
 朝の淡い光の中、オルトラーニはいつものように机に向かい、書類の山と戯れていた。グレゴレッティの訪問は習慣になっていたので、さして驚く様子もない。手元に落としていた視線を上げ、姿を認めるとまた資料へ目を通した。
 その一瞬の眼光が、グレゴレッティの中で尾を引く。
「最近、お前の顔が領収証に見えるようになったよ」
「それは大変だ。眼鏡を変えた方がいいんじゃないか?」
 云いながらグレゴレッティはマホガニーの机へ歩み寄る。コートのポケットから紙の束を取り出すと、上位幹部はあからさまに眉を顰めた。
「たまには領収書以外のものを持ってきたらどうなんだ」
「そういうルールなんだから仕方がないでしょう、ドン・オルトラーニ。大体、仕事以外ではろくに話をする気もないくせに」
「そんなつもりはないが。……二週間分か?」
 オルトラーニは渡された領収書の束をぱらぱらと捲りながら確認した。出現するゼロの数に眩暈がする。グレゴレッティは元々言動が派手だったが、幹部に就任してからというもの、それに拍車がかかっていた。それがファミーリアのための出費であることは理解していたが、控えられるところは控えようという姿勢を見受けられないことが、オルトラーニの胃を痛めるのだった。
「いや、一週間分だ。それは先々週の分。先週分はこちらの帳簿で確認中なので終わり次第持ってくる」
 その言葉に、オルトラーニの顔からすうと表情が消えるのがわかった。だが事実なので致し方ない。そもそも領収書は俺へ提出しろと命じたのはオルトラーニなのだ。組織全体に関わる大きな出費ならともかく、個人のシマでの出費の詳細など、把握する義務はないにも関わらず。
「必要経費だ」
「どうだか。たまには自腹でシニョーラたちにプレゼントでもしたらどうだ。箔がつくんじゃないか?」
 白々しく提案しながらオルトラーニは領収書をまとめて封筒へ入れ、机の奥へ追いやった。どうやらゴミ箱行きは免れたらしい。
 グレゴレッティは山と積み上げられた書類を見ながら、このまま用件のみで立ち去るべきかもう少し雑談を続けるべきか判断しかねていた。組織の財務管理を預かる目の前の男は部下に厳しく、気難しく、下手をすると機嫌を損ねて面倒なことになってしまう。冷えた表情になってしまった分を挽回できればいいのだが、余計なことをして状況を悪化させるのは避けたかった。
 オルトラーニはそんなグレゴレッティの胸中などまったく興味がないようで、目の前にあるのは大きな置き物だとでも思っているかのように無反応だった。机の隅へ除けていたコーヒーカップを取り上げて、一口だけ啜る。
 そんな静かな沈黙の中へ、ノックの音が響いた。続けて控え目な、けれどはっきりした声が部屋の主を呼ぶ。
「……ベルナルド?」
 ドア越しにくぐもった声が聞こえた、その瞬間。
 常に冷静な目で状況を判断し指示を飛ばす組織の若き要、ゆくゆくはカポになるとすら評されているCR:5幹部ベルナルド・オルトラーニが、へにゃ、と笑ったのをグレゴレッティは見た。
「ああ、いるよ。入っておいで」
 なんだそのメレンゲみたいな声は。
 そうグレゴレッティがつっこむよりも早く、オルトラーニはドアへ顔を向けたまま、グレゴレッティを追い払うように手を動かした。おとなしく三歩下がり、様子を見守ることにする。
 入ってきたのは細身の男だった。ブロンドに目がないグレゴレッティが感心するほどの金髪に、朝陽が射してきらきらと輝いている。歳はグレゴレッティよりもいくらか若いくらいだろうか。滑るように部屋に入ってきた彼は、グレゴレッティの姿に気づいて足を止めた。
「あ……すまねえ、お客さんか?」
「構わないさ、ハニー。こちらの用事はもう終わったからね。どうしたんだい? 珍しいじゃないか」
「ダーリンに会いたくってつい来ちゃったわ。爺様のパシリで用事があったから、ついでに寄ってみた。相変わらず忙しそうだなー」
「ん、まあね。ジャンも変わりないか?」
「ぼちぼちってとこだな。ベルナルドこそ、あんまり根詰めんなよ? その歳でストレス性の脱毛なんて泣くに泣けないぜ」
 ジャンと呼ばれた青年は、ごく自然な動作で腕を伸ばしてオルトラーニの髪に触れた。オルトラーニは目を細めてその手を取り、指先に軽くくちづける。
「気遣いありがとう、ハニー。これでまたしばらくは頑張れるさ」
「そりゃよかった。お仕事頑張ってネ、ダーリン」
 ジャンはそう云って満面の笑顔を向け、軽い足取りで出て行った。部屋を出る時、ずっと黙ったままだったグレゴレッティにぺこりと会釈した、その蜂蜜色の眸を見て、蒼じゃないのか残念だ、と思った。
 だがそんな思考も、ドアの閉まる音で霧散する。
 ぎぎぎ、と錆びたブリキの音のしそうな動作で首をオルトラーニへ向け、グレゴレッティは無理矢理に笑顔を作った。
「……ええと、ドン・オルトラーニ……?」
「何だ。まだ用があるならさっさと済ませてくれないか、グレゴレッティ。こっちも暇じゃないんでね」
 ぴしゃりと云い放つオルトラーニは既に平素に戻っている。眼鏡の奥の眸に、ジャンへ向けていた穏やかな光はもうない。いつもの幹部がそこにいた。
 書類にざっと目を通し、必要な対処に応じて分類し机に並べる。一見乱雑に見えるが、机の上は彼のルールによって実は整然としていることをグレゴレッティは知っていた。てきぱきとその作業を進めるオルトラーニは普段の姿と変わりない。
 グレゴレッティは先のやり取りを見なかったことにして、また来る、とだけ云い残し、オルトラーニの執務室を退去した。

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