ジャンとベルナルドとルキーノ。パラレル・3P。Happy Halloween!
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PM
朱と藍に混じり染まった深い夕闇が、世界を夜へと引きずり込もうとしている。
自宅へと戻る途中、ジャンカルロはふと足を止めた。道路の脇へ細く長く伸びている路地の奥をじっと見つめる。そこは昼間でも薄暗く、いつから置かれているのかもわからないごみやがらくたが山積みになっていることを彼は知っていた。
けれど今は、それ以外のものが、そこに、ある。
ジャンカルロは素早く周囲を見渡し、誰にも気づかれぬようその脇道へ滑り込んだ。音を立てないよう注意しながら進むと、高く積まれた木箱の裏に予想通りの存在を見つける。
どうするべきかと一瞬だけ考えてから、助力を仰ぐために一旦家へ戻ることにした。いつの間にか、頭上には既に赤はなく、夜が支配を広げていた。
陽の光や澄んだ空気の届かない、地下独特の湿った気配。
それに安堵しながらゆっくりと瞼を上げる。視界がはっきりしないのは眼鏡をかけていないせいだろうか。仄かな明るさはあるが、これはランプの炎だ。己を焼き尽くす忌々しい太陽ではない。
「あ……気がついたか?」
すぐ傍で声がして、ベルナルドは跳ね起きた。そうしてから、自分がベッドへ寝かせられていたことを知る。記憶が曖昧だった。どうしてこんなところにいるのかわからない。本来ならば、傍に誰かがいるだけで眠れるはずなどないのに。
声の主はベッドのすぐ傍、簡素な椅子に座ってベルナルドを見ていた。黒いシャツとスラックスが闇に馴染んでいる中で、ランプの揺れる炎にゆらゆらと照らされた金髪だけが、目に痛いほど眩しかった。
「大丈夫か? 喉、渇いてないか?」
金色を戴いた青年が、同じ色の眸でベルナルドを覗き込んできて、ベルナルドは反射的に身体を後ろへ引いた。青年は心配そうな表情でこちらを注視している。警戒している気配は微塵も感じられない。
――喉、渇いてないか?
渇いているさ、とても。餓えている。だがそれを目の前のこの青年へ告げる気にはなれなかった。自分が永らえるためには人に牙を剥かなければならないが、ベルナルドはそうすることを嫌っていた。そして、いま感じている餓えはまだ、気が狂うほどのそれではない。大丈夫だ、耐えられる。少なくともこの青年の元から離れるまでの間ならば保つだろう。
いずれ誰かを犠牲にするのだからただのエゴイズムだとわかっていても、今この時に犠牲を回避できるのならそうしたい。だから、彼を餌食にはしたくない。
「喉が渇いてるなら、食ってくれても構わないぜ」
降ってきた言葉に今度こそベルナルドは我が目を疑った。今の発言はこの青年が発したものか? 彼は自分がなにを云っているのかわかっているのか? 彼は――ベルナルドが何者であるか、わかっているのか?
ベルナルドの混乱をよそに、青年は無造作に髪を掻きあげて耳と首筋を露わにした。その動作が、すべてを告げていた。
知らず喉が鳴る。伸ばしたがる腕を必死になって抑えた。
「君は……。駄目だ、俺はもう出て行くから、」
「出て行くのか?」
青年はぽつりと声を落とした。ただの問いかけにしてはそれは寂寥を孕みすぎていて、ベルナルドはどう受け止めればいいのかわからなかった。
じっと自分の反応を待っている青年になにを云えばいいというのか。沈黙の中、不意にこつこつと、踵が石を蹴る音が聞こえた。こちらへ近づいている。ベルナルドは開きっぱなしのドアの向こうにぽっかりと空いた暗闇を睨んだが、青年はベルナルドを見つめたままだった。
「おいジャン、そろそろ――っと」
現れたのは長身の男だった。衣服は青年と同じように黒くシンプルだが、赤毛のライオンヘアと右頬を走る傷が目立って、派手な印象を受ける。なにが可笑しいのか、ベルナルドを見ておお、と笑った。
「気がついたのか。お前、名前は?」
不躾な態度に眉を顰めると、相手はわざとらしく肩を竦めた。先に名乗れ、と思ったのは伝わったらしい。
「俺はルキーノ。こいつはジャン」
「ジャンカルロってのが本名なんだけど、誰もそうは呼ばないな」
ルキーノの言葉を継いで青年――ジャンカルロが説明する。誰も、という括りの中にはルキーノ以外にどんな奴がいるのだろうとどうでもいいことを思った。
「……ジャンカルロ、」
「ジャンでいいって」
「……ベルナルドだ。ジャン……その、俺は……」
「なあジャン、話が長引くなら先に飯を食わせろよ」
また口を挟むのか。ベルナルドは飄々としているルキーノを睨みつけたが、なんの効果もなかったらしい。部屋の入り口から大股で歩いてジャンカルロの背後に立つ。
「今はこいつと話してるんだよ。別に逃げたりしねえって」
「逃げる逃げないはどうだっていいんだよ。お前は逃げないし、逃げたら追いかけるだけだ。……腹減ってんだよ、わかるだろ」
「……おーぼーな奴」
「俺が勝手な男だってのも、知ってるはずだ」
くつくつと笑いながらルキーノはジャンカルロの背後から前へ手を回し、シャツのボタンをぷつ、ぷつ、とふたつ開けた。襟を肩から落とすと、地下の薄暗い中でもわかる、陶器のような白い肌が覗いて、ベルナルドは目を見張る。
そこでようやく、気づく。ジャンカルロの肌とその下に流れる血のあまい匂いに。自分の身体が欲しがるそれに。そして、ルキーノの目的に。
「……お、まえ、」
「気づくの遅えよ、同類」
云うが早いか、ルキーノは口を大きく開けてジャンカルロの滑らかな首筋に牙を立てた。――牙。そう、ルキーノには、人間のものとは違う、牙があった。
ベルナルドのそれと、同じ形の。
びくりと跳ねたジャンカルロの身体を長い腕で押さえつけ、片手で後ろ髪を掻きあげて、ルキーノは牙を深く突き立てていた。ジャンカルロは穿たれた瞬間の痛みに堪えてぎゅっと目を瞑ったが、それは一瞬で、ゆっくりと瞼を上げる。ルキーノの行動から逃げないどころか、彼はベルナルドと視線が合うと、ふっと笑んでみせて、云った。
「ほら、俺はこういうの慣れてるからさ、遠慮すんなよ」
言葉の後ろで、ず、とルキーノが血を吸い上げる音がする。夜の匂いに混じる血の気配が濃くなってゆくのがわかる。
眩暈がした。この光景は夢だろうか。ヴァンパイアが人間の血を吸っていて、その人間はベルナルドへも手を差し伸べている。信じられない。信じられるのは、いま自分がジャンカルロの血を求めているという事実だけだった。
ベルナルドは震える手をジャンカルロの身体へ伸ばす。未だ血を吸っているルキーノがそれを見てにやりと笑った。やはりな、と云われているようで気に食わなかったが、ジャンカルロによって満たされることを思うとどうでもよくなった。喉の渇きを、あるいは、もっと別の餓えを。
ジャンカルロはしずかに笑っている。
「ジャン。……ごめん」
牙を突き立て血の味が咥内に広がるとすぐになにも考えられなくなってしまって、小さな謝罪がジャンカルロに届いたかどうかはわからなかった。
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