ベルナルドがショコラティエというパラレル
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短い黒髪の女のために作った店はビターチョコレートの色をしていた。
テンパリングをする時はいつも、触れたことなどないはずの彼の髪を梳いているような気分になる。
あの金色の絹を、このココアの香りが染みついた指で掻き混ぜるのだ。どんな心地がするだろうか。さらさらと零れていってしまうのか、それともしっとりと絡みつくのだろうか。そんな夢想の中で器具を動かし、不意に手応えを感じると、まるで本当に彼に触れることができたかのような錯覚をおぼえる。目の前にはただ、金属のボウルにたゆたう煉瓦色の海しかないというのに。
彼の名前すら、知らないというのに。
「いらっしゃいませ」
教科書どおりのような礼、そして笑顔。視線が合うと、馴染み客である彼はにいと人好きのする笑みをベルナルドへ返した。
すらりと細身の身体は、しかし背筋を伸ばせば平均よりも高く、美しい金髪と相まって存在感を放っていた。佇まいに重苦しさはないが、身に纏っているのは上等な三揃えだ。さぞ多くの女性の目を惹きつけることだろう。あるいは、自分のように男性の視線をも。
来店はいつも唐突で、脈絡がなかった。朝一番に来ることもあれば夜遅いこともある。真っ当な職業の人間ならばオフィスで働いているような時間にも平気で来店するし、そもそも仕事用と思われる鞄を持っている姿を見たことがない。かといって職がないようにも見えない(平均以上の収入がない人間は、この店のチョコレートを買わないだろう)。
ベルナルドは彼の正確な情報をなにひとつ知らない。知りたいとは思うが、知るべきだとは思わない。知らないということは夢想する愉しみを生んでくれる、それは知ることよりもよほど贅沢であるような気すらしていた。
かつ、と革靴の踵を小気味よく鳴らし、彼はショーケースの正面でスラックスのポケットに手を入れて立ち止まった。美人に見えるよう計算されて並べられたチョコレートたちが、彼の気を惹こうとライトを浴びてめかしこんでいる。
彼の視線がショーケースをざっと一周したところで、ベルナルドはカウンターに置いていた小さな白い皿を差し出した。
「よろしければおひとつどうぞ。今季限定、カラメリゼのトリュフでございます」
「お、サンキュ」
躊躇いなく伸ばされた彼の滑らかな指先が、皿の上、ココアパウダーを纏ったトリュフの一粒を、摘みあげる。
パウダーが彼の指を汚している。
彼はトリュフを齧らず、口の中へ放り込んだ。閉じかけた口から舌を伸ばし指先を舐めてパウダーを拭おうとする。舐め損ねたパウダーがくちびるについたのがわかったのか、手の甲でぐいとくちびるを擦った。
ベルナルドは苦笑しながら控えめに声をかけた。
「タオルをお持ちしましょうか?」
「ん、ああ……いや、大丈夫さ」
彼は口の中でトリュフを溶かしながらもごもごと答えた。指先が汚れた時点では声をかけなかったベルナルドのことなど考えもしていないのだろう。
「これ美味いな。俺は甘いの好きだからチョコレートはどれでも好きだけど、これは甘すぎねえしカラメルの苦味が結構強いからウイスキーにも合いそうだ」
「ふふ、美味しく召し上がっていただけるのならスコッチでもブランデーでも、カシスオレンジでもどうぞ」
「最後のは遠慮した方がよさそうだなあ」
くすくすと笑いながらショーケースを眺めて回り、彼はこれとこれと、といくつかのチョコレートを示した。
「畏まりました。贈り物でよろしいでしょうか?」
彼は直接は答えなかった。
「そこに並んでる一番右のリボンをかけてくれよ」
畏まりました。ベルナルドは先刻とまったく同じ調子で答えた。
ベルナルドは彼のことをなにも知らない。
それでも、彼が頻繁に来店しベルナルドの作ったチョコレートを買い、おそらくは誰かに贈り、あるいは彼自身が口にする、その事実(後半は夢想)を思うだけで、店に並べたチョコレートがまるで宝石であるかのような気分になるのだった。
いつもと同じ色のリボンを丁寧にかけた化粧箱を店のペーパーバッグに入れ、店内を眺めて待っていた男を呼ぶ。
品物を受け取って満足げに頷くのは、一体なにに対して満足しているのだろうか。その対象の中にほんの少しでもチョコレートそのものが含まれているのであれば、この店は彼のために存在している。
あっさりと踵を返した彼の姿が見えなくなり、ベルナルドは作業場へと向かう。彼の来店のために作る途中で放置してしまっていた新作ショコラの機嫌を伺わなければ。
夜にはきっと、短い黒髪の女が味見をしに来る。
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