戦場は地獄だった

非処女の水木

 戦場に、人間なんかいなかった。銃を持って動く生き物が集められて、命令のとおりに動く。動けなくなったら取り除かれ、新たに補充されて、また命令のとおりに動かされる。生命はその動力にすぎない。敵も味方も関係なく、紙よりも軽く扱われ、紙よりも簡単に引き裂かれる。
 生命がそれほど軽んじられる場所で、肉体が丁重に扱われるはずがないのだ。
 はじめは──思い出したくもないが──同じ部隊の、郷里のちかい男だったろうか。水木がほかの隊員よりもわずかばかりましな顔のつくりをしていて、太ってはいなかった、そのていどの理由だろう。直接聞いてはいない。聞きたくもない。抵抗してもうまくきかず、銃で撃たれて即死したほうがつらくなさそうだ、と思ったことは覚えている。
 その一度では済まなかったし、相手もひとりでは済まなかった。いつだって胸糞悪い噂ほど速く広く駆け抜けるものだ。数が集まってしまえばもうほんとうに、水木にできることなどなにもなかった。舌を噛むか、噛まないか、それだけだ。この地獄にあってみずから舌を噛むことは命令上許されなかった。あるいはただ、その勇気もなかっただけかもしれない。
 水木にとっては死に等しい行為でも、のしかかってきた男たちにとってはただの娯楽だっただろう。娯楽ですらなかっただろうか。なにも考えずとも煙草を吸わずにいられないのと同じように、他人を制圧することで自分はまだましだと思い込まずにはいられなかったのかもしれない。
 こんなのは人間なんかじゃない。何か別の、妖怪のような存在だ。そう思いたくても事実、彼らも水木も同じ人間なのだった。
「殺せ!」
 そう叫んだのは、あの場にふさわしい言葉だったといまでも思う。自分は殺すために、殺されるために戦場にいたのだから。
「俺を殺せ!」
 けれど結局、殺しはしても、殺されずに生き延びてしまった。あんなにみじめに踏みにじられることなどもう二度とごめんだと、おのれの生命と肉体と尊厳のために、夏でもスーツを着て、得意先や上司に頭を下げ、どんな命令でも聞いて、これではまったく、戦場にいたころと変わらない。
 誰も彼も畢竟、他人のことなんてどうでもいいのだ。水木だってそうだ。だから写真と情報で知っていたうら若い少女のこともすぐに利用してしまえる──彼女がどんな地獄に生きているかなど知る由もなく。
 そんなものだ、人間なんて。

 だから、こんな山奥の村までひとりふらりと現れて、妻を一途に探し求めるゲゲ郎は──まるで人間ではないかのようだった。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!