甘い水

非処女真琴×非童貞遙

「俺、ハルが好きだよ」
 するりと唇から零れ落ちた言葉を聞いて、遙はそうか、とだけ答えた。それはまったく普段通りの相槌そのものであった。
 真琴が脈絡なく紡ぐ世間話、たとえば昨日見たテレビだとか、今日の天気、蘭と蓮のささいな口喧嘩、朝見かけた猫、そういったものを話す時と同じ調子で言われたので、遙のほうもそれをただの事実として淡々と受け止めるのが道理であるように思われた。
 視線の合わない遙の横顔を見て、真琴は、うん、と微笑む。
 それからおもむろに腕をゆるりと伸ばし、指の背で遙の頬を撫でた。猫と同等の扱いか、と遙は内心でおもしろくなく感じたものの、きっと真琴にとってはこの行為も猫を手懐けるようなものなのだろうと理解しているから、反論などしない。
「あのさ、ハル」
 静かな町の静かな夜、静かな家の中、別の部屋にいたって声の届くような環境で、真琴は子供が彼だけの彼にとってだけの秘密を打ち明けるときのように声を潜める。
 近づいた顔から微かに、けれど間違えようのない、煙草の匂いが鼻についた。
「俺、童貞なんだ」
 これに対しても遙は、そうか、と答えるより他なかった。

 学業を修めた後、遙が定職に就いていないことだけは確かだった。
 ときおり数日間家を空けていなくなることがあって、それは遠方の女に呼ばれているのだと知っていた。趣味というよりほとんど暇潰しで制作した絵を、その女を通して売りに出し、それなりにまとまった金額を得ているらしい、と、もうどこで聞いたのかも覚えていないがどこかで聞いた。
 もともと多くは必要としないひとだから、生活に困ってはいないようだった。受け継いだ一軒家にひとりで暮らし、絵で得た金で米や卵を買う。漁業の町だから、海産物は新鮮なものを安く手に入れることができた。あとはたまにプールで泳げれば、それで彼の生活は足りる。過分も不足もない。
 一方の真琴は岩鳶を離れ、都会を拠点に暮らしていた。同性に愛されるという己の性癖を認識してからは、それに見合った生活にシフトし、実家に帰る頻度は年々、文句を言われない程度に減っていた。それに伴って遙と顔を合わせる機会も減る。この日会ったのは実に一年ぶりで、帰省した真琴がたまたま夜に外で電話をし、同じ時刻にたまたま遙が庭で猫と戯れていたからだった。
 離れている間に遙は女の身体を覚え、真琴の身体は男の身体を知った。改まって確認などしないが、それが互いの共通認識である、という共通認識があると理解していた。

 まったく一切の苦痛もなく、とまではいかなかったが、真琴が遙の身体をひらくのは、キスの最中に想定したよりもずっと呆気なく実現できた。
 覚悟と身体の反応は必ずしも一致しないと覚悟していたから、挿入された瞬間にその状況に驚いて、一拍遅れて笑いがこみ上げた。同じように、目的のために散々前戯を施していたはずの真琴も目的が達成されたことに驚いたようで、遙が笑うのにつられるようにして、眉尻を下げてくつくつと喉を鳴らす。可笑しくて可笑しくて笑うというのは、久しくしていなかったように思った。
「また来てもいい?」
 ベッドを下りた真琴が、服を身につけながらいつもの顔で言う。
 そんなこと今まで一度も訊いたことなかっただろ、と遙は内心で反論した。回りくどいことをせずとも、はっきりと言えばいいのに。思っても、言ったところで結果は変わらないので声には出さない。
「勝手にしろ」
 横たわったまま目を閉じる。水に入りたい。水に溶けてなにも考えずにいられたら。ほんとうは一人で水の中にいる時が一番思考が澄むのだと、気づいてはいるけれど。
 真琴が苦笑しているのが空気でわかった。
「おやすみ」
 大きな身体が階下へ降りてゆく。がらがらと、静まり返った町中に知らせるような音を立てて七瀬の家の扉が開閉された。
 遙が今こんな生活をしているのも、真琴が都会へ出たのも、今夜たまたま顔を合わせたのも、全部がこのためにあったことのように思われた。それ、を最後までしたというのは、不快ではなかったからだ。嫌ならその時点でやめろと言ったし、きっと真琴は行為を止めた。
 真琴は、また来ると言った。
 それがいつのことになるかはわからない。やがて訪れるその二度目の時に、一体どんな顔をして彼を迎えたらいいのか微塵も見当がつかず、いつかもわからぬその時まで答えの出ないものに悩まされ続けるのかと思うと、それはまったく、酷い拷問なのだった。

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