共犯関係

江と凛。7話で凛がタイムを落として申告したと言っていたので

 携帯電話が耳慣れぬメロディを奏でる。江はなんの音かと一瞬考えてから、弾かれるように手を伸ばした。設定したことすら半ば失念するほどに珍しい、大切な人からの着信音。
「お兄ちゃん!」
 電話口から届く、おう、と少しくぐもった挨拶は確かに兄のもので、江は頬を緩めながら携帯電話を持ち直す。
「どうしたの? なにかあった?」
 あー、と、電話の向こうで凛が渋る。がしがしと後頭部を掻く仕草を思い浮かべながら、江は次の言葉を待った。
『岩鳶、県大会エントリーしたんだよな』
「うん、したよ」
 当然と言わんばかりの妹の即答に、凛は鼓動が高揚するのを実感した。指先に力が篭る。遙は逃げなかった。あとは引きずり出したその舞台に、自分も並べばいい。
『ハルは100か? 200もか』
「フリーの100だけ。真琴先輩と渚くんは、それぞれバックとブレの100と200なんだけど、遙先輩は一回泳げればいいって」
 つくづく凛を刺激することの巧い男だった。江には聞こえない程度の舌打ちをして、深く息を吸い込む。
『江、ハルのエントリータイム教えろ』
「……え?」
 予想だにしなかった用件で、江は回答を逡巡した。幼い頃から兄がレースで泳ぐ姿を見てきたし、今は水泳部のマネージャーだ。エントリータイムがなにを意味するかなんて、説明されるまでもない。
 いつか水着を買いに出かけた時、遙に対して、もう一度勝負しろ、と言った凛の声を思い出す。地を這うような、絞り出すような、江に話しかける時には使われない低い声。遙に勝たないと先に進めないと言っていた。
 江の望みは明らかで、そのために今なにをすべきかはひとつしかない。
「わかった」
 江が告げたタイムを凛が小さく復唱する。メモを取る必要などないだろう、きっと凛は同じタイムを申告して、遙の隣で予選を泳ぐ。
「お兄ちゃん」
『ん?』
 凛の気怠げな返答は江のよく知るものだった。遙にぶつけるような棘はない。そのことに安心し、一方で肩を落とした。江ひとりでは昔の凛を取り戻すことはできないと突きつけられた気分だった。
「県大会、がんばってね」
『はあ?』
 江の真剣さに不釣り合いな、間の抜けた声が返る。
『お前岩鳶のマネージャーだろ。俺じゃなくて自分のところを応援しろよ』
「もちろん応援してるよ。でもお兄ちゃんは、私のお兄ちゃんだもん」
 想像する。晴れ渡った青い空の下、太陽にきらきらと照らされたプールで凛と遙が並んで泳ぐ姿を。それがどんな結果であれ、ふたりが互いの泳ぎを認め合い、またいつか小学生の頃のように共に生き生きと水を駆ける姿を。
「お兄ちゃんと遙先輩の本気の勝負を応援してる」

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