しがふたりをわかつとも

あかるい死後

 遙が死んだらその一秒後に自分も死ぬものだと思っていたから、実際にその事態に直面したとき二秒後も三秒後も死んでいないことに驚愕した。
 もうあまり先が長くないとは言われていたから、遙も真琴も覚悟はしていた。宣言されたよりもずいぶんと長く生きたのは鍛えられた身体のおかげか、好物の鯖のおかげか。自宅にいたいと言った遙の望みを叶えるために真琴はほとんどつきっきりでいた。結果的に最期を看取ることができたから、遙はそこまで見越していたのかもしれない。居間に敷いた布団の上で、遙は真琴をじっと見て、目を閉じて、そうして二度と動かなくなった。喉からあふれる迷子の子供のような泣き声をどこか遠くに感じながら、真琴は自分がまだ死んでいないことを不思議に思った。
 一日後にも三日後にも真琴は死ななかったので、友人として喪主をつとめた。
 葬儀の後、遺灰の一部をもらって海に出る。沖はおそろしいほど静かに凪いでいた。空高くに鳥の声が聞こえる。紙に包まれた灰をすこし手のひらに取り出すと、かすかな風が真琴からそれを奪い水面へ散らした。
「ハル」
 またすこし灰を手に取る。今度は指の隙間から零れていった。
「俺、まだ死んでないんだけど」
 くしゃりと灰の袋を握る。このまま海へ散骨できるように水溶性の紙で作られていたが、真琴はすこしずつ、全部を手のひらにのせてから撒いた。
「……会いたいなあ」

 真琴が息を引き取ったのはそれから五年後のことだった。
 遙がいなくても生活することには困らなかった。七瀬の人間がいない七瀬家にひとり住み続けるのはいかがなことかと思ったが、誰にも指摘されなかったので遙がいた頃と同じように過ごした。
 向かいの生家には弟夫婦がいたし、嫁いだ妹も近くに暮らしていてよく顔を合わせる。旧友たちがそれなりの頻度で遊びに来てくれるのも嬉しかった。渚は真琴の具合が良くないと知ると、死んだらハルちゃんによろしくね、などと言ってからからと笑い、怜に怒られていた。
 遙と同じように死にたかったから、家にいる間は居間で休んだ。最期は両側から蓮と蘭が看取ってくれて、果報者にもほどがある、と思う。考えてみれば真琴の人生はいつも賑やかだった。両親がいて、遙がいて、蓮と蘭がいて、友人たちがいて。ひとりきりだったことなんて、遙が死んでからの五年間だけだ。
 死ぬことはもう、怖くはなかった。

 目を開くと視界が白かった。眩しすぎはしないが十二分に明るい。目線の高さに細かななにかがある。
(霧? ……ちがう、雲か)
 首のあたり一面に雲が広がっていた。地に足がつく感覚はないが、浮かんだ状態で竦みそうになるほど不安定というわけでもない。どうやら平和なほうの死後の世界に来ることができたらしい。音もなくただ白い世界だったが、不気味さはなかった。
 きょろきょろと辺りを見回す。どこを見ても同じに見えて、小さく吐息した。自分以外になんの気配もない。
「真琴」
 だから、後ろから恋しい声が聞こえたことにすぐには反応できなかった。
 全身がぞわりと震え、止まったはずの鼓動がどくどくと煩く鳴っている気がした。よく知った声、五年経っても忘れることなどできるはずのないその声。
 後ろへ向くと、目の前に手のひらが差し出されていた。岩鳶高校の制服姿がしゃがんでいる。首を上向けて顔を見ると、まだ十代の頃の彼の顔があった。ということは自分もその頃の外見なのだろうか。
「ハル!」
 差し出されていた手を夢中で掴むと反動で遙が倒れかけ、遙の片腕が地面につくのと真琴の片腕が遙を抱き込むのとでそれを回避した。身体には体温と形があって、確かになぞることができた。
「ハル……!」
 手を握りしめたまま掻き抱くと、痛い、と遙が抵抗したから、手は離して抱きしめ直す。誂えられたかのように馴染む身体は確かに遙のものだった。
「早かったな」
 遙が真琴の髪を混ぜる。
「俺、もっと早く来るはずだったんだけど」
 そう正直に言うと髪から離れた手に軽くはたかれた。
「ちゃんと生活できてたじゃないか」
 鯖も食べてたし。真琴の生活をつくった張本人が満足そうに言う。
「うん、ハルのおかげ。……さみしかった」
 力いっぱい抱きしめる。今度は抵抗されず、同じ力で抱き返された。真琴には敵わなくても、遙にも平均以上の力がある。輪郭をなぞるには十分だった。
 しばらくそうしていたが、ふと遙が口を開く。
「困ったことがあるんだ」
「なに?」
 身体をすこし離して顔を覗き込む。遙の顔だ、遙の表情だ。そして、言うこともやはり、遙だった。
「ここ、泳ぐ場所がない」
 あまりにも真剣な顔で言うから反応が遅れてしまった。確かに泳げるような場所は見当たらないし、死後の世界で遊泳するひとというのも聞いたことがない。よし、と真琴が立ち上がる。
「かみさまにお願いしに行こう。きっとプールくらいすぐ作ってくれるよ」
 そう言って遙の手を取り、返事を待たずに歩き出す。真琴の筋力は相変わらずで、遙はつんのめった身体をなんとか引き戻した。
 かみさまがどこにいるかは知らないが、きっとどこかで会えるだろう。ここなら時間は無限にある。遙の我慢が限界になる前に会えるといいのだけど。
「おまえ、凛のこと笑えないぞ」
 はは、と真琴が短く声をあげた。
「ロマンチストなおかげで死んだあともこうやってハルと一緒にいられるなら、もうなんだっていいよ」
 そう言ってあまりに満足そうに笑うものだから。
「俺も」
 つい絆されてしまっても仕方がない。
 ハル、と呼ぶ声に口元が緩むのを隠すように、遙は手をつないだまま駆け出した。

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