天方と江。8話の前
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夕方の職員室に人の気配は少ない。天方先生、と声をかけられて、軋む椅子を少し引く。そばには赤いジャージを着た教え子が、普段よりも神妙な面持ちで立っていた。
「あら。松岡さん、どうしたの?」
時計を確認しても部活動終了時刻にはまだ早い。いつもぎりぎりまで泳いでいる水泳部のマネージャーが、部活終わりに顧問を呼びに来た、とは思えなかった。
「あの、県大会のエントリーが決まったので、提出に」
「ああ、そういえばそろそろ期限だったわね」
天方には競泳の知識がない。新設された水泳部は過半数が経験者ないし関係者だということもあり、天方はサポートに徹していた。県大会も、エントリーの手続きは天方が行うが、誰がどの種目に出場するかは部員の意志に一任している。
「これです。七瀬先輩はフリーの100、橘先輩は背泳ぎの100と200で……」
江はエントリー種目をメモした紙を天方の机、宿題の山の隣に置き、順に指差していく。書かれた五行のうち、四行を説明して江の話は止まってしまった。
「松岡さん、これは?」
最後の一行の説明がない。誰のエントリーなのかも種目もわからなくて、ただ確認のために訊いたつもりだったが、江はなにかを堪えるような表情を見せた。
「……メドレーリレーです。それは……」
『Med.R』の短い文字を睨んで、江が口を濁す。天方の知る、いつもはきはきとしている江とは違っていた。
「四人で泳ぐのね。これもエントリーしておけばいいのかしら?」
顔を覗き込むようにして確認すると、江はしばらく唇を震わせてからぽつぽつと声を紡いだ。
「リレーはエントリーしないって、部長が言ってました。それぞれの個人種目で泳ぐって」
「じゃあ、上の四つだけ?」
「はい。……でも、私はリレーに出てほしいんです」
マネージャーが、部員たちに対してリレーに出てほしいと思う心理が天方には掴めなかった。ただ江の顔を見て声を聴けば、彼女がそれを強く望んで、彼らの決定に納得していないことはわかる。
「それは、他のみんなには言ったの?」
江は赤い髪を揺らして小さく首を左右に振った。
「出ないって、言われちゃいましたから。泳ぐのは私じゃないですし」
諦めたとでも言いたげだったが、とてもそんなふうには見えない。出ないと言われて、それでも天方へ渡すメモに種目を書いた江の本心が、国語教師に伝わらないとでも思っているなら随分と甘く見られた話だ。
わかったわ、と天方はわざと大きな声を出し、メモを取り上げ江に見せる。
「これ全部、私が責任もってエントリーしておきます」
「え」
面食らった様子の江に、ぴっと人差し指を立ててみせる。
「県大会までまだ時間はあるもの。その間にあの子たちが、やっぱりリレーに出たかった、って言い出すかもしれないでしょう? もし本当に、当日になっても出ないというなら、そこは体調不良とでも言って棄権すればいいわ。よく言うでしょう、『事を事とすればすなわちそれ備えあり』」
「先生、でも」
「松岡さん。やりたいことは、やれることは、やれる時にやらなきゃだめなのよ。私がリレーにエントリーすることで誰か悲しむ人はいる?」
長々と喋りながら、ああ歳をとると説教ばかりになってしまって嫌だわごめんなさいねでもあなたたちのためなのよ信じてもらえないかもしれないけれどほんとうに本当にそうなのよ時機が過ぎてしまってからではなにもかも取り返しがつかないのよ、と、内心だけで断りを入れた。自分は水着を着ることをやめてしまったけれど、水着姿で水の中を自在に泳ぐ教え子たちは贔屓目抜きに輝いていたし、応援したいと思っている。
江は、いいえ、と小さくもはっきりと答えた。天方は決まりね、と頷く。
「じゃあ、この通りにエントリーするわね。松岡さんは今すぐじゃなくてもいいから、リレーにエントリーしたことをみんなに伝えて。案外、エントリー済みだって知ったら出るかもしれないわよ」
どうでしょうかと苦笑する江は、しかし先程よりはずっと晴れやかにしている。
「それで、当日の朝に、出場するかどうかを教えてちょうだい。いいかしら?」
「はい。あの……ありがとう、ございます」
「私はただ大会にエントリーするだけよ」
天方がいたずらっぽく笑うと、江もつられて頬を緩めた。
「じゃあ、部活終わったらまた来ます」
「はい。熱中症に気をつけてね」
がらがらと職員室の扉が閉まり、俄かに静けさが戻る。校庭から、なにかの部活の掛け声が遠く聞こえた。プールの様子まではさすがにわからない。
これでみんながリレーに出たら、ゼロ番目の選手は松岡さんね。
預かったメモを最重要書類のボックスに入れて、天方は宿題のチェックを再開した。
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