夏の途中

一度はやりたいエンドレスエイト

 もうずいぶんと長いあいだ同じことを繰り返しているような気がする。
 遙は全身を強く揺さぶられながらぼんやりとそう思った。長いあいだ、というのが具体的にどれくらいの期間なのかは、暑くて熱くてうまく数えられなかった。冷房は効いているはずだが、こんなことをしているのだから気休めにしかならない。
「ハル、」
 頭上から声が降ってくる。うすく目を開くと、他のものが視界に映らないくらい近くに真琴の顔があった。水を被ったように汗が浮いていて、髪もしっとりと濡れそぼっている。
「……ハル」
 違う、髪が濡れているのはついさっきシャワーを浴びたせいだ。それにしたって互いに汗をかくほどの状況、大きな掌で撫ぜられたら余計にあつくなるのも道理だった。
 遙の頭を包み込むように掴んで、真琴が顔を寄せてくる。翡翠のいろの瞳に自分の影が映っているのを見てから、遙は目を閉じた。

 夏休みは、部活のある日とない日があった。部活のある日は学校のプールで泳げるが、そうでない日は泳げない。だから海で泳ごうとして家を出たところで声をかけられた。
「ハル!」
 声の主なんて一人しかいない。階段の先を見上げると、ホースを持った真琴が遙を見ていた。
「海行くなら、俺も一緒に行っていい?」
 あとは片づけるだけだからと、ホースを巻きながら言う。弟たちを庭のビニールプールで遊ばせていたらしかった。他に誰がいようが泳ぐことができれば遙はそれでいいし、そのことを真琴はわかっているはずで、だからこれは、後で行く、という宣言と同義。
「先、行ってるから」
「うん」
 言葉の通り真琴は後からやってきて、一緒に泳いだりばらばらに泳いだりした。あまり沖の方に居続けると真琴が心配するから、沖と岸を往復するように進む。プールにはない波の抵抗が全身を包んで心地好かった。日差しも、空の高さも、海の青さも。
 しばらくはそれでよかったが、いくら水の中が好きでも空腹には勝てない。昼食を二人分作るからと真琴を家へ呼んだものの、遙は台所を素通りして浴室へ入った。やっぱりね、と真琴は短く吐息する。海水と砂が肌の上で乾いて不快なのは真琴も同じだったから、浴槽に水を溜める遙に断ってシャワーを借りた。
 そう、そこまではいつも通りだった。遙も真琴も、意外性のあるようなことはなにもしていない。

 シャワーを浴びる真琴の様子がおかしいと気づいたのは、身体を沈めれば溢れる程度に水が溜まった頃だった。背中を向けて頭からシャワーを被ったまま、どこを洗うでもなく動かない。
「真琴?」
 蛇口を締めながら声をかけると、日に焼けた肩が大袈裟に跳ねた。
「な、なに?」
 返事はするがやはり動かない。
「どうかしたのか?」
「なんでもないよ、あ、シャワー、使うよね、はい」
 早口で言ってシャワーを押しつけるが顔は向かない。遙は差し出されたシャワーではなくその先にある真琴の肩に手をかけて強引に振り向かせた。
「真琴」
 ひどい顔だった。肩に触れた掌が焼けそうに熱い。ちらと見えた下半身を見て、あ、と原因に気づいた時にはもう背がタイルについていた。
「ハル、俺、」
 遙の胸のあたりで顔を伏せた真琴の表情が見えなくて、後頭部に手を伸ばす。触れた瞬間、大きな身体がぐいと近づいて唇に噛みつかれた。ごめん、と掠れた声が呼吸に混じる。なにか言おうにも口は塞がれていたし、なにを言えばいいのかもわからない。押しのける気はなぜか起きなかった。
 そのあとのことはよく覚えていない。気づいたら真琴が叱られるのを待つ子供のような顔で遙を見ていたので、遙はつとめて普段通りに振る舞った。具体的には夕飯を食べていくかと訊いて(遅い昼食にするには遅すぎた)、真琴は家にあるからと断った。

 翌日は部活があったので、学校で顔を合わせた。平常よりだいぶ遅く、集合時間ぎりぎりになってプールに現れた真琴は、先に来ていた水着姿の遙に気づいてとっさに笑顔を作る。後ろから、同じく水着に着替えた渚がいつもの明るさでやってきた。
「あっ、まこちゃんおはよう、今日は遅かったね?」
「ごめん、ちょっとね。すぐ着替えてくるから」
 江が組んだトレーニングメニューをこなし、各々の課題を話し合う。そろそろ怜の練習量を増やしてもよさそうだ。夏休みの間にだいぶ練習した成果が出てるな、と言いながら一瞬、頭の中に熱が篭るように思考が曇った。
 俺たちはこの夏に、どのくらい練習したんだ?

 登校は遙と時間をずらしたが、下校はそうはいかなかった。校門前で渚や怜と別れ、交差点で江と別れると、必然的に遙と二人きりになる。
 遙の口数が少ないのは今更の事実で、真琴が黙ってしまうと会話なんて発生しない。沈黙を意識すると、途端にそれ以外の音が耳についた。一週間を生きる蝉の大合唱、道端で遊ぶ子供の声、波の音。アスファルトに蜃気楼がちらちらと揺れていた。
 海側を歩く遙を横目で見やる。真琴が話している時は大抵海のほうへ顔を向けている遙が、今はまっすぐ前を向いていた。見えると思っていなかった横顔に息を呑む、その奥に見える海の水面が真夏の日差しを浴びてきらきらと白く光っていた。
 まだ泳ぐ? と訊きそうになって、やめた。昨日の今日で海に入るのは良くないと直感で悟る。歩いている間にすっかり汗だくになった身体に蝉の鳴き声が重くまとわりついて鬱陶しい。帰ったらとにかくすぐにシャワーを浴びよう、などと思いながら歩き、鳥居の影が見えた頃、遙が口を開いた。
「真琴」
 聞こえた瞬間、世界から蝉の声が消える。
「寄っていくか」
 なにを言われたのか理解するのに時間がかかり、理解したあとはその言葉の意味を正しく受け止めるのに時間がかかった。階段の途中で足が止まってしまったことに、数段進んだ遙が気づいて立ち止まり、振り返る。
「……どうして」
 それだけ声に出すのが精一杯だった。恐る恐る見上げた遙の瞳に陽があたり、真琴はさっき見た水面を思う。引いては寄せる、底の見えない青。
「暑いから」
 遙は一言で返し、階段を上っていく。引き寄せられるようにして、真琴はその後を追った。

 家に着いた遙の行動は昨日とまったく同じで、だから真琴の方が変えた。シャワーを借りずに冷房と扇風機で強引に体温を下げる。肌の表面が少しべたつくのは無視した。
 水風呂から上がった遙が鯖を二匹焼く横でコップに麦茶を注ぎながら、なにをやっているんだろうかと自問する。遙はどういうつもりで自分を呼んだのだろう、自分はどういうつもりで家に上がったのだろう、さっきの遙の言葉なんて無視してまっすぐ家へ帰った方がよかったんじゃないのか。
 そんなふうに考えることこそが無意味だった。無視なんて、できるはずがないのだから。
 食事のあと、遙と目が合ったらもうだめだった。畳だから、浴室のタイルよりはいくらかはましなはずと内心で自分に言い訳して、遙が拒む素振りを見せないのをいいことに、シャツの奥に手を伸ばす。作ってもらった食事の味がよくわからなかったことも、セックスも、なにもかもが後ろめたいのにやめられなかった。

 それが日課になるといよいよ日付の感覚がなくなった。毎日海かプールで泳いでから、遙が家に呼ぶことも、真琴が行くと断りを入れることもなく、当然のように同じ玄関へ向かって、同じことを繰り返した。時間によっては遙が作った料理を二人で食べることもあったが、夕飯の時間になると真琴は決まって家へ帰った。
 リビングで夏休みの宿題をする弟と妹を見て、自分も宿題を出されていたことを思い出す。まったく手をつけていないし、そもそも宿題の内容すら把握していなかった。面倒なものだったらどうしようかと懸念したのは一瞬で、すぐに宿題のことなど頭の中から抜け落ちていく。昨日も一昨日もその前も同じような日だったから、明日も明後日もその先も同じだろうと根拠もなく信じたし、このまま一生続くとすら錯覚しそうになった。そう思う時点で、きっともう錯覚していた。

 その日は海で泳いだあと、遙の家へ行った。シャワーを浴びて、チャーハンを食べて、内容のない午後のテレビを流しながら雑誌を眺めた。夏休みが始まる前に渚が持ってきた風鈴が、縁側でちりちりと鳴る。
 いつもならこのどこかで遙に触れてそのままセックスするのに、そうしなかったのはほんの気紛れでしかない。そのあとで少し眠るのが習慣になっているせいか、遙が目元を擦るのが見えた。
「ハル」
 膝で読んでいたまんがを閉じて、机に置く。
「昼寝しない?」
 遙は返事の代わりに座布団を半分に折って枕を作り、ぱたっと倒れた。真琴も隣で同じようにする。長めの黒い前髪の下、遙はもう目を閉じていた。肩へ腕を伸ばすと一度だけ身じろいだが、跳ね除けられはしなかった。手を滑らせて頭を引き寄せると、遙の呼吸が首元にあたる。
 髪にキスしたのは初めてかもしれない。指を絡ませたまま、真琴もしずかに瞼を下ろした。

「……あ、」
 真琴の口から間の抜けた声が漏れた。それで目が覚めたらしい遙がぼんやりと真琴を見る。カレンダーから遙の顔へ視線を移した真琴は、ひどく真剣な顔をしていた。
「ハル、明日始業式だよ。宿題やった?」
 起きしなにかけられた言葉を理解するのに間を置いてから、遙がぽかんと開けていた口を動かす。
「やってない」
 夏のあいだを揺蕩い続けていた意識が急に現実に引き戻された。遙が携帯電話のディスプレイを確認し、真琴が横から覗き込む。疑いようもなく8月31日だった。
 至近距離で顔を見合わせた瞬間、腹の虫が二匹鳴く。えええ、と声を漏らした真琴に、遙がぷっと吹き出した。
「もう間に合わないだろ。夕飯食ってけよ」
 材料余ってるし。遙にしては言葉が多い。
「うん」
 立ち上がってエプロンを身につける遙を見て、自分も大概だが彼もずいぶんと日に焼けた、と思う。少なくともそれくらいの時間は、一緒にいて同じことをして過ごしてきたのだ。
 本当ならばもっとずっと早く伝えるべき言葉は、不思議なほど自然に零れた。
「好きだよ、ハル」

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