彼は知らない

真琴と渚が遙の話。2話の後

「オレは渚が羨ましいよ」
 真琴がぽつりと零したそれはひどく本音に近いものであるように渚には思われた。
「えっ?」
 直前までの会話はなんだったかと遠くで考えながら聞き返す。見上げても、高い位置にある真琴の顔は夕陽に陰り、視線は合わせられなかった。
「まこちゃん?」
「オレは、遙を競泳に連れ戻せなかったから」
 表情は伺えなかったが、真琴が笑ったのはわかる。この笑い方を知っている、小学生の頃にも見たことがある。なにかを優しく手放してそっと諦めるような、外野が口を出すことの叶わない防壁。
 渚は大股で三歩あるく間だけ考えたが、他の答えは見つからなかった。
「僕はただハルちゃんとまこちゃんと泳ぎたかっただけだよ」
 渚の声に迷いはない。
「そっか」
 素直で屈託ない表現をする渚が、口数少なく表情もあまり変わらない遙を慕うのは、きっと傍から見たら不思議だろう。遙の泳ぐ姿を見ればそれだけでなにもかも納得するはずなのだけれど。
 幸いにして真琴は遙の泳ぎも渚の性質もよく知っていたので、先の言葉を穿たずに受け止めることができた。それは真琴の中にひとかけだけ生まれたひび割れのような部分を潤すように沁みてゆく。
「ありがとう、渚」
「まこちゃんもね」
「え?」
「ハルちゃんが競泳やらないなら、それでもよかったでしょ?」
 真琴の歩幅が縮む。先に進んだ渚がくるりと振り返ると、真琴の目はまっすぐに渚を見ていた。さっき感じた笑顔はどこかへ消えている。
「でも、ハルが競泳やるなら、それでもいい」
「うん」
 真琴が隣に並ぶのを待ってからまた歩を進めた。真琴は彼の身長にしてはゆっくりと、渚は大きく軽やかに。
「楽しみだね、水泳部」
「ああ」
 町に満ちる潮の気配のなか、塩素の香りが微かに混じった、気がした。

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