黒い予感

夏也と尚、夏也と遙

 帰りのホームルームを終えてまっすぐに尚のクラスへ向かうと、彼はまだ教師の話を聞き流しているところだった。
 夏也は扉の窓越しにその姿を見る。教室の中、真ん中より少し後ろの席に座って、ノートを取るようなこともないのにシャープペンシルを持ってゆらゆらと揺らしていた。涼しげな横顔は無感動にも見える。夏也と一緒にいる時は笑っていることのほうが多いから実は貴重だ。
 どんな時でも、席替えをした直後だって、夏也はすぐに尚の姿を見つけることができた。そもそも最初から、夏也が尚を見つけたのだ。見失うはずがない。
 やがて皆が起立し、あやふやな一礼をしてホームルームが終わった。席を立つ音、一斉に話し出す声、扉の開かれる音、それらが混ざり合って学校特有の喧騒を作る。夏也は他の生徒に構わず教室へ入った。
「尚ー! 部活!」
 尚が振り返り、色素の薄い髪がさらりと揺れた。
「ちょっと待って」
 手の中で弄んでいたシャープペンシルをペンケースにしまい、それを鞄に放り込む。案外雑というか、いい意味で細かいことを気にしないことをもう知っている。
 早く早くと急かす夏也に呆れる顔を見せながら、尚がそのあとについて教室を出た。部活へ向かうふたりの、まったくいつも通りの光景だ。
 なにも変化はなかった。少なくとも目に見えて、夏也に気づける範囲には、なにも。
 尚もなにも言わなかった。
 ただいつものように並んで歩いていたのだ。学校は一年半も通えば庭のようなもので、どこにどの教室があるのか目を瞑っていたってわかる。何歩歩けば隣のクラスに着くのか、プールまでの最短の道のりだとか、階段の段数だって、数えたことはなくても、降りていればこれが最後の段だとわかる。
 尚と歩く時にちょうどいい速さも、もうすっかり身体に馴染んでいた。入学した時から互いに着実に伸びている身長も、ずっと一緒にいるからあまり意識はしない。
 たわいない話をしながら廊下を進んで、角を曲がる。階段にさしかかる頃には尚のほうが夏也の一歩前を歩いていた。とん、とん、とリズムを刻むようにして階段を降りてゆく。高い天井にふたりの笑い声が響く。
 階段の途中で突然、尚の身体が不自然に沈んだ。
「……っ!」
 腕を掴んだのは反射だった。急に速くなった鼓動を感じながら、尚が階段を踏み外したことと自分がそれを止めたことを認識する。掴まれた尚のほうは見上げるようにして夏也を振り返り、なんとも形容しがたい顔をした。夏也の心臓はまだばくばくと鳴っている。掴む手に力がこもった。
「ありがと、夏也」
 大丈夫だから離してくれという意味だ。夏也は手を離しながら、鼓動を逃がすように大きく溜息を吐いた。
「びっくりした……」
「うん。ちょっと滑っただけだから」
「気をつけろよー。ぎりぎりまで泳ぐんだからな!」
 今年の夏は、大会は、もう終わった。悔しさはずっと身体の底に燻っている。もっと上へ行きたかった。今年叶わないならば、来年の夏を目指すしかない。
 大会が終わってもまだ気温は高く、プールで泳ぐのに支障はなかった。三年生が引退して部長を引き継いだ夏也を筆頭に、部員たちはみな次の夏へ向けて練習に取り組んでいる。寒くなって学校側から禁止されるまでは泳いでいるつもりだ。
 尚は微笑んで頷いた。その日もその次の日も、尚は夏也や他の部員たちと同じように、部活に参加した。

 尚が網膜剥離だと判ったのは、その秋のことだった。

 廊下を歩く小柄な背中、丸い頭を見つけて、遙だ、と思った。まだそんなに会話をしたことはなくても、初めて一緒に泳いだ時の印象は鮮烈で忘れられない。
 遙はなにか荷物を抱えているようだった。後ろ姿から教材らしきものがはみ出して見える。あれでは足元がおぼつかないだろうと思ったが、それを理由に誰かに手伝ってくれと言うような性格でないだろう。
 声をかけようとしたところで、遙の姿が夏也の視界から消えた。角を曲がったのだ。その先には階段がある。忘れもしない、尚が落ちかけたあの階段。
 急に嫌な予感がして夏也は走り出した。幸い遙との距離はそう離れていない。階段を二段飛ばしで駆け降りて踊り場から手を伸ばしたのと、遙の持っている荷物が大きく傾いたのは同時だった。
 落ちそうになる荷物を支えるようにして遙の身体がよろめく。廊下ならそれでなんとかなるだろうが、階段の途中でそれはあまりにも、あまりにも宜しくない。
 ぱしっと叩きつけるような、乾いた音が鳴る。夏也の手が荷物を支えて、遙は驚いた顔で振り返った。そんな顔もできるんだな。
「……っぶねえな」
 荷物は落ちていないし、遙も階段を踏み外したりしていない。それでも夏也の心臓はうるさく、嫌なものが背筋をぞわりと震わせた。
 遙の青色の瞳は静かに夏也を映している。上級者をものともせず、水の中をしなやかに睨む目。
 遙を水泳部に誘ったのは彼が競泳経験者だからだ。大会で名前を見たこともある。けれどその美しさや魅力は、並んで泳いでみて初めて真に伝わったように思う。遙は水の中で自由に呼吸するように泳ぐ。水の中で速くなりたいと願う者なら、魅了されずにはいられない姿だ。
 そうやってずっと泳いでいてくれ。尚みたいに、悲しい理由で水から離れてしまわないでくれ。
 遙はそんな夏也の想いなど知る由もなく、短く頭を下げることで謝辞の代わりにした。

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