11/17 22:53

高校卒業後の誕生日

 初めは惨憺たるものだった一人暮らしも半年を超え、ようやくなんとか形を成してきた。辛うじて人をひとり招ける程度の部屋を見渡して床と机の上を確認し、真琴は燃えるごみを詰め込んだビニール袋の口ををぎゅっと締める。ごみの日に携帯電話のアラームを鳴らすという手法は学部の先輩から教わったものだ。収集日を逃して次の機会まで保管しておくのは、ワンルームの狭い玄関には荷が重い。
 起きたままのスウェット姿にサンダルをつっかけ、ごみ袋を片手に外へ出る。うすらと曇った朝はしんとして存外に肌寒く、剥き出しになった裸足の表面から体温を奪った。大股の早足でごみ捨て場へ向かえば、近くの一軒家の庭に咲いた金木犀の香りがふわりとすれ違う。思わず振り返った肩越しの風景、彩度を落とした中で小さなオレンジ色だけが際立って鮮やかに見えた。
 夏はすっかり過ぎていた。
 追われるようになんとか大学一年の前期を乗り切って、休みに入った後はほとんどを岩鳶に帰省して過ごした。弟妹の声と潮風に後ろ髪を引かれつつ、後期の準備があるからと残暑の中アパートに戻り、一人暮らしを再開して約二ヶ月。
 今の真琴の生活はアパートと、大学と、誘われて始めたアルバイト先で成り立っている。手に負えるぎりぎりの量を抱えて過ごす毎日に、それ以上のものが入り込む余地はない。
 この日もごみ出しの後で簡単に朝食を済ませて大学へ行き、夕方からアルバイトに入り帰ってからは課題をし、のルーチンで一日が終わりかけていた。明日は講義が午後からだからゆっくり寝よう、でもその前に洗濯をしないと、などと考える度、そういった生活の組み立てを三年前からやっていた幼馴染の器用さに頭が下がる思いになる。
 彼は愚痴を零すことも弱音を吐くことも、疎かにすることもなかった。勉学に関してはやや放置気味ではあったものの、成績を落とすほどではなかったから、きっと今ものらりくらりと巧くやってそつなく単位を確保しているのだろう。
 そんなふうに思っていたところで携帯電話が机の上を滑り出した。夜遅くに鳴ることなど滅多にないそれを訝しみつつ、確認したディスプレイの名前に慌てて受話ボタンを押す。かけることはそれなりにあれど、かかってくることは希少だ。
「も、もしもし?」
『……真琴?』
 当然ながら表示された通りのひとの声が聞こえた。遠慮がちで、大きくはなく、けれど聞き逃すはずのない声。
「ハル?」
『ああ』
「どうしたの、なにかあった?」
 電話をかけてくること自体が珍しいのに、加えてこんな遅い時間、真琴もそろそろ寝ようとしていたくらいで、遙が連絡を寄越すなんてよほどの急用としか考えられない。
 そう思って訊いたのに、返ってきたのは呆れ気味の溜息で。
『真琴が慌てるようなことじゃない』
 声は少し笑いを含んでいるようにも聞こえた。真琴は至極真面目だったので、いささか腑に落ちない。
「なにもないならそれでいいんだけど」
 それならどうしてと訊く前に、まこと、とまた呼ばれた。
『誕生日おめでとう』
 沈黙。遙は言うべきことは言ったとでもいうかのように黙り込み、真琴は言われたことの意味を理解するのに時間を要した。
「…………ありがとう」
『なんだ、その間は』
「そういえば誕生日だったなあと思って」
 ちらりと見やった壁時計は、あと一時間ほどで日付が変わることを教えている。
『忘れてたのか』
「忘れてたわけじゃないけど。……忘れてた」
『どっちだ』
 遙が今度は明らかに笑っているのがわかる。できることなら直接見たいところだった。
「誕生日になってすぐに蘭と蓮が電話をくれたんだ。だからその時は覚えてたけど、寝て起きたら忘れてた」
 ああ、と納得したような返答は、誕生日を忘れていた以上のことへ向いているように聞こえた。
「どうかした?」
『ゆうべ電話した時は通話中だったから』
「え」
 さらりと告げられた内容に、ひとりの部屋で思わず身を乗り出した。この場合の主語の補完など間違えようがない。
「夜中に電話くれてたの?」
『真琴だってかけてきただろ』
 言われて五ヶ月前のことを思い出す。確かに遙の誕生日になってすぐに電話をした。けれどそれは真琴がそうしたかったからで、遙から同じことをしてもらおうと思っていたわけではない。事実、ゆうべ双子と電話をした後はすぐに眠ってしまったし、夜が明けたら誕生日を忘れていたくらいなのだから。
 あの家で遙が自分に電話をかけている姿など考えたことがなかった。いざ想像してみると、むず痒いような嬉しさに襲われる。
「ありがとう」
 精一杯の感謝に返答はなかった。きっと照れているのだろうと電話を隔てたむこうを思う。言うだけ言った後で収まりが悪そうに照れるところは、二年前から変わりない。
 机の上に置いてある無愛想な卓上カレンダーを眺めながら、真琴は携帯電話を握り直した。十一月のカレンダーの右上に、十二月のカレンダーが小さく載っている。印がついているのは今年最後の講義の日であり、岩鳶へ帰省する日でもあった。
 帰る頃には雪が降っているかも知れない。潮風に舞う吹雪はすこし物悲しい、けれど思い起こすその風景にひとりきりでいたことは一度もなかった。いつでも家族と、遙がいる。
「ハル、来年はお酒飲もうよ」
 気が早いとか言うなよ、と先に釘を刺すと、遙は一拍置いてから、ああ、と返した。
『飲むのはいいけど飲めるのか』
「わからない、飲んだことないから。まさかハル、」
『この間飲まされた』
「えええ」
 先輩に少しだけ、と言い訳のように言葉を濁す。真琴の一人暮らしのように、遙にも新しい生活があるのだとわかってはいても少なからず衝撃がある。
「なに飲んだの? どうだった?」
『ビール。特になにも……うまくはなかったな』
「じゃあビール以外のお酒にしよう」
 一年後なんてすぐに来る。自分の部屋か、あるいは遙の家で、もちろん外の店で飲んでもいい。
 声が弾むのが自分でもわかった。それは遙にも電話越しに通じたようで、まこと、と宥めるように口を挟まれる。
『気が早い』
「言うなって」
 壁の薄いアパートで周りに響いてしまわないように声を潜めて笑う。本当は大声で笑いたい気分だった。とても、とても気分がいい。
『じゃあ、そろそろ寝るから』
「うん、おやすみ」
『またな』
「ん、ありがとう」
 ぷつり。通話が切れる音が小さく聞こえて、意識は静かないつものアパートに戻る。
 手の中の、遙と揃いの携帯電話をしばらく見つめてから、そういえば誕生日に遙がいないのは初めてのことだとようやく気づいた。そしてそれが取るに足らない事実だということにも。
 もし今日電話がなくて、数日後にそうと思い至ったとしても真琴は気にしない。次に直接会った時についでのように言われるか、あるいはそれすらなかったとしてもなにも問題などない。仮に立場が逆だったとして、きっと遙も同じことを言うだろう。他の人かどう見えようと、真琴と遙はそうあればいい、今までだってずっと二人の方法で歩いてきたのだから。

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