臨也と帝人。イメージはシアターサンモール
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客電が場内を照らすのを切欠に喝采は宙へと霧散して、余韻と現実が混じり合う。さまざまな種類の興奮を纏って会場を出る客の波を、折原臨也は最後列から望洋と眺めていた。笑顔でいる者、目元を赤くした者、言葉もなく呆然としている者。反応はそれぞれだが、誰もが常態からはかけ離れた高揚に満ち満ちていることだけは確かだった。
これが君の望んだ「非日常」なら、たいしたものだ。
やがて臨也以外の観客はみな出払い、喝采と共に下りた幕が静寂の中で上がる。Tシャツにジーンズ、スニーカーといった動きやすさ重視の格好をしたスタッフが数人現れ、慣れた手つきで舞台のセットを解体していった。客席には未だ臨也が残っていることに気づいているのか否か、臨也が彼らの動きに注視しているにも関わらず、どのスタッフとも視線が合わない。存在していたはずの世界は彼らによって簡単に取り壊され、そこにあるのは黒い床だけになった。目をこらすと黒の上に見える色とりどりの線は、劇中の役者の立ち位置を示すビニールテープか。
大道具を撤去する音が止んで静まり返った伽藍堂を、臨也は見据え続ける。
舞台栄えからはほど遠い、大柄でもなければ目鼻立ちにも特徴のない、平凡を絵に描いたような男が現れた。彼は舞台上を数歩進んだところで立ち止まって屈み、足元の黄色いビニールテープをびっと剥がした。
それを指先に弄んだまま、ゆっくりと振り返る。
視線は客席へ。誰もいない座席を隔てて最後列から舞台を見下ろす臨也へ。
「臨也さん」
帝人の声がコンクリートの壁に響く。臨也は座ったまま、片手をすいと上げて応えた。
「ご来場、ありがとうございました」
「他ならぬ君の初監督舞台、その上誘いをもらったとあれば、来ないわけにはいかないだろう?」
「ここだけの話、客席が埋まらないのは本望ではないので、知り合いに手当たり次第に声をかけただけなんですけどね。思ったよりいろんな人が観に来てくれて嬉しいです」
帝人は舞台からひょいと飛び降りた。整然と並べられた客席の合間を縫って、臨也の元へ歩み寄る。
「ふうん。例えば誰?」
「あなたと僕の共通の知人は、ほとんどが。なんの偶然か、今日は臨也さんしか来ていないんですが」
「それは残念」
適当に返しながら、臨也は帝人が云うところの「共通の知人」がこの客席に座っているところを想像する。紀田正臣が、園原杏里が、あるいは首なしライダーは岸谷新羅と連れ立って訪れただろうか、平和島静雄がこの硬い椅子に二時間もじっと座っているところなど微塵も想像がつかないが、弟を伴っていれば可能性はゼロではないだろう。ブラコンが。
「それにしても、君がこんなことを始めるとはね」
「ええ、自分でもそう思います。でもやってみたらすごく楽しくて。今回の作品を作りながら、次回はああしようこうしようって、もうそんな先のことまで考えてしまうくらいです」
そう云って、紀田正臣や園原杏里へ向けるのと同じ笑顔を見せる。それに薄ら寒いものを感じながら、臨也は努めて受け流した。
「また招待したら来てくれますか?」
「――もちろん」
よかった、ぜひ来てくださいね、と云い置いて、帝人は舞台から飛び降りた時のようにあっさりと、臨也へ背を向けた。同じタイミングで舞台裏から帝人を呼ぶ声がして、今行く、と意外とよく通る声で返す。
舞台袖へ入る手前で振り返って臨也へ軽く会釈をし、帝人は姿を消した。残された黒い舞台にまだ剥がされていない青いビニールテープを見つけ、あれは剥がさなくていいのだろうかとどうでもいいことを思う。
緞帳が下りてから帝人が去るまで席を立てなかった理由は、考えないようにした。
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