チェズレイがどうでもいいホラ吹いたせいで勘違いさせられるアーロンかわいそうという話。みんな大好きア労災
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この国で銃声を聞く機会はもうすっかりなくなった。爆撃の音も。低空を飛ぶ戦闘機の音も。そうして、地面にぼろ雑巾のように倒れて血を流したり、腕や足を失っているひとも見かけなくなった。
けれどだからといって人間が負傷しないわけではない。本人にはどうしようもないことで病気になったり怪我をしたり、そのときに適切な医療にアクセスできるかどうかがそのひとのその後の人生を決めてしまうこともあるのだ。
「あァ……いい姿ですねェ……」
「テメエ、なんでここに……」
診察を終えて病室へ戻ると、面会時間でもないのに来客がいた。長い脚を組んでアーロンを見上げる、パイプ椅子の似合わない男。
彼は二年前に突如ハスマリーに建てられたこの病院の理事であった。終戦して間もない荒野には似つかわしくない立派な建物を、ハスマリーの子供たちは物語の中に登場する城を見る目で見つめていた。
建物だけあっても仕方がないが、病院の隣には職員宿舎があり、肌の色も瞳の色もさまざまの医師や看護師がそこで暮らすという。
これまでまともな医療のなかった土地である。病院が建てられたことは、学校が建てられたときと同じくらいインパクトがあった。
だからアーロンはこの病院に感謝している。せざるを得ない。たとえそのあるじが、顔を見るだけで虫唾が走るような相手であったとしても。
チェズレイはそんなアーロンをすっかり理解したうえで、まったくもって涼しげな顔で、あっさりと種明かしをする。
「特定の人間のカルテが操作された場合、連絡が来るようになっているのですよ」
「……おい」
「上腕骨近位端骨折だそうで」
「なんで知ってんだよ……」
「車とぶつかりそうだった子供を庇ったなんて、美しい話ではないですか。表彰するよう根回ししておきましょうか?」
「やめろ」
カルテの操作結果がリアルタイムで共有されているとしか思えない発言に、アーロンの口がひん曲がる。
ハスマリーはひとが増え、車が増えた。数台の車が荒野を好き勝手に走っていたころとは違う。交通整理の必要ができて、道や横断歩道が整備されていった。
けれどそれは、運転者や歩行者がルールを認識してこそ機能するものだ。なにも知らない子供が青信号の横断歩道だけを渡るはずがないのだった。
道路と車と横断歩道と信号について、学校でしつこく教えるようアラナに伝えておかないといけない。
「怪盗殿は命に別状なくお元気そうだとボスにも連絡しておきますよ」
「いらねえよ、余計なことすんな」
「おや、腕を吊る無様な姿になっているのが恥ずかしいので? では写真も添えておきましょう」
「なんなんだ、もう帰れ!」
「アナタ、病院内ではお静かに」
詐欺師の薄い微笑みがアーロンの背筋を泡立たせる。この会話を続けても並行線だと、これは経験則でわかりきっていることだった。
「オッサンはどうしたんだよ」
「モクマさんは……」
そこでチェズレイは言葉を切り、ハァァ……と長い長い溜息をついた。なんだよ、と危うく続きを促してしまいそうになる。
「……虫歯の治療をしに歯科へ」
「ハァ?」
「大丈夫、あとで見舞いに来ますよ。この病室は教えていますから」
言いながらチェズレイは立ち上がる。まったく余計なことばかりだ。引き止める理由もなくむしろ早く出て行ってほしいので、アーロンはその顔を睨みつけた。
チェズレイの言った通り、しばらくするとモクマがひょっこりと姿を見せた。前に会ったときと変わらない飄々とした顔で、アーロン、と無駄に弾んだ声をかけてくる。
「ハァ……虫歯はいいのかよ」
「虫歯? なんの話?」
モクマはおうむ返ししながら白い歯を見せた。口の中をいじり回され治療したばかり──にはとても見えない。
だから、つまり、歯科うんぬんというのはチェズレイの勝手な方便なのだ。モクマと時間をずらして見舞いにくるための。
──そんな付き合いたてのカップルが関係を隠すための小細工みたいなことする意味あるか?
こんな連中に付き合わされていることにこそ表彰してくれとアーロンは強く思った。せめてその表彰状をびりびりに破いても怒られはしないだろう。
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