絶望に焦がれる唄

不可抗力でテニスを辞める跡部

 神は彼を、ただテニスのために造った筈なのに。

 九月。跡部景吾の欠席は一週間を越え、噂すらも薄れ誰もが真実を求めるようになった。だが元より大勢の人間が関わる場、数少ない、知ることを赦された者は決して口を開かず、流れるのはやはり噂だけ。
 教職員の中でもそれは少なく、生徒に至っては先月までのテニス部でレギュラーとして動いていた数名に限られた。

「侑士」

 午後の予鈴が響く廊下で向日が呼び止めた。憔悴していると思ったのは、多分お互い様のことだろう。
 忍足は、何、と短く返した。

「まだ、行ってねえんだろ」

 それは向日の知る範囲ではなかったが、強い断定だった。

「いい加減にしろよ。動かなかったらずっとこのままじゃねえか」

 忍足は答えない。向日は続けた。

「さっき、監督に聞いた。昨日退院して自宅安静だって。会ってこいよ」

 じゃあな、と向日は自分の教室へ戻った。
 忍足は唇を咬む。血など、滲みすらしなかった。

 ノックを緩く二回。返事はない、いつものことだ。
 かけるべき言葉を思いつけないまま、ドアノブを捻った。かちゃりと最低限に響いた音がやけに気に障る。きちんとドアを閉め、いつ以来なのか跡部と向き合うと、図っていたのかと思うほどのタイミングで跡部が蒼い眸をこちらへ向けた。
 いつもと変わらない、聡明な表情。
 ───嗚呼。

「忍足?」

 ───嗚呼、神様。

「久しぶり」

 少し掠れた跡部の呼び掛けに応え、やっと出た情けない声は、それしか音にならなかった。
 跡部は気にする風もなく、全くだ、と嘯く。

「他の奴らは、もう全員来たぜ?」
「───ひとりで?」
「いや、ジローと滝は一緒に来た。宍戸と岳人も。二年は三人まとめて来たしな」

 陽の射す窓際に寄せられたベッドで半身を起こしたまま、跡部は手に持っていたオーディオのリモコンを弄って流れていた音楽を止めた。軽快なジャズは、この空気にはあまりにも不釣り合いだった。
 揺蕩っていた音楽も消え、広い部屋は完全に無音になる。
 忍足は数歩、跡部に近づいた。

「なんか云うてた?」

 臆病だ。

「特に挙げるような話はねえよ。学校がどうだとか、少し聞いたがまあ、大体予想はつくしな」
「───せやね」

 跡部が饒舌だ。気を遣わせて、いる。
 一体なにをしに来たのかわからなくなっていたが、そもそも目的など持っていなかったのだ。向日の後押しこそあれど、理由を述べるならばただ、衝動。
 その勢いは、空回りしかしなかったが。

「体調は、大丈夫なん?」
「何ともねえよ。暇で困ってる。家からもまともに出れねえし、鈍るばっかりだ」

 軽い口調の科白に心臓が抉られる。

「ああ、欲しい本があるのなら、勝手に持っていけばいい。好きに使ってくれ」
「───考えておくわ」
「忍足」
「うん?」
「お前は、テニスに真摯な俺がいいんだと云ったな」

 ───跡部は。

「今の俺はどうだ? 何日も、ろくに歩きもしていないこの状態は?」

 彼という人間は、絶対にその研ぎ澄まされた刄を自分に向けるような人では。

「───独り言だ。応えなくていい」

 跡部はまたリモコンを弄り、CDを作動させようとした。だがボタンを間違えたのだろう、流れてきたのはFMラジオの気の抜けたDJの声。

 油断したら、叫びだしてしまいそうだった。

 忍足は跡部が誤作動に舌打ちするよりも早く駆け寄り、リモコンごとその手を握り締めた。
 呼吸が詰まる。

「───痛えよ」

 すぐ近くで聞こえた声に神経を撓められ、忍足は深く息を吐いた。鼓動が煩い。跡部は気づいているだろうか。きっと気づいているだろう。気づいていればいい、気づいていなければいい。

「───明日、」

 発した言葉は、先程よりもずっと確かだった。

「明日も、来るから。待ってて」

 跡部はこちらをみている。

「逃げたりしねえよ」

 蒼い眸は、確実に忍足を射ぬいていた。

 跡部の部屋を出、広い廊下を少し歩いたところで来た時にも出迎えてくれた執事と鉢合わせた。お邪魔しました、と云うと彼は見慣れた笑みと会釈で返してくれ、そのことに酷く安堵した。

「もう帰られますか?」
「はい」
「お時間があるのでしたら、もう少し残られませんか。客間にお茶をお持ちいたします。───お顔の色が優れませんね」

 どうしようもなく泣きたくなって、忍足はお言葉に甘えて、と執事のあとに続いた。

 出された紅茶は以前のものとは銘柄が違うように感じたが、満足ゆくことに変わりはない。陶器のカップもソーサーも確かに跡部の家のもので、恐らくまたリモコンを操作してチャーリー・パーカーを聴いているだろう彼の澄んだ蒼い眸を思い出すともう紅茶の味などわからなくなった。

 あの美しい眸が、もはや彼に暗闇しか与えないことなど考えたくもなかった。

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