「星の数ほど男はあれど 月と見るのは主ばかり」
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忍足はどちらかというと理系の人間だ。
だが決して文系に弱いわけではなく、寧ろそちらにも精通していると云える。
どうでもいいような知識を結構な量、備えており、それはごく偶にだけ垣間見えるのだった。
「景吾の景の字って、他に何て読むか知っとる?」
三人しか残っていない部室で、唐突に忍足が云った。突然自分の名前が出たことに驚いたのは否定しない。
その声を背後に聞きながら、俺は着替えを始めた。
「え? いきなり何?」
「何や岳人、景の字思い出せないん?」
「莫迦にすんな! 知ってるよ、景色のケイだろ?」
「せや、それ。他に何て読むか知っとる?」
「―――ケイ、だろ。あとは―――」
忍足が笑っているのが、雰囲気で判った。
「思いつかんのやろ?」
「っ煩いな! 他にあんのかよ?」
「あるから云うとんのに。あんま使わへんけどな」
「じゃあ知らなくてもいいだろ」
「でも面白いねんで。跡部や思うと尚更」
「ふーん?」
「な、跡部」
突然話を振られた。
吃驚して振り返ると、忍足がそれを待っていたかのような顔で笑う。
「―――何だよ」
「聞いとったやろ、今の話? 景の字の他の読み方」
「エイ、と読むこともあるな。それから一文字だけでケシキと読むこともある。かなり特殊だが」
「そうなの?」
「人名の場合には、アキラと読ませることだってあるぜ」
「全然違うじゃん! あの字のどこがアキラなんだよ」
「漢字なんてそんなもんだ」
「あー、それもあんねんけどな。もう一つ」
「何、まだあんの?」
「あるでー。こんなん、他の漢字考えたら少ない方やんか」
「―――カゲ」
求める答えが出て、忍足は嬉しそうに笑う。
「そ、俺が云いたいんはそれ。カゲ」
「カゲ? って読むの? あれで?」
「読むんだよ」
「でな、じゃあそれはどういう意味かは知っとる?」
訝しんだ視線を向けると、忍足はそれを受け――或いは受け流し――あんな、と云った。
「現代じゃ使わんと思うんやけど、古典―――平安とか、その頃で」
「平安なんて知るかよ!」
「そう怒らんと。あんな、その頃は、カゲは光なんよ」
「カゲ―――は、光?」
「うん」
「何それ。わけわかんねえ」
「跡部は?」
「そのまんまだろ。カゲが光なんだ」
「何や、知っとった?」
「―――知るかよ」
あからさまに満足そうに頷く忍足の足を取り敢えず踏みつけ向日の方を見ると、まだ意味がわからないらしく唸っていた。
「わっかんねえよ! 大体侑士、なんで古典なんてやってんの」
「んー、趣味?」
「―――信じらんねえ」
「じゃあ古典の苦手な岳人のために砕くと、カゲって言葉の意味が光、ゆうこと」
向日は一瞬、不機嫌そうな表情を見せ不満を訴えたが、カゲの意味は理解したらしくすぐに笑った。
「ああ、意味な!」
「わかった? 月の景、ゆうたら月の光ってことなんよ」
「ややこしー」
「ほんまにな。でも跡部やったら影より光って気ぃするやろ?」
「あ、わかる。影じゃないな」
「せやろ? でもな、それもまた別の意味持ってんねんで」
「まだ何かあんのかよ」
「これは光とは対称やと思うんやけどな」
「―――『眼前に居ない人の姿』」
忍足の、俺を見る眼がほんの一刹那、鋭くなった。
向日は気付いていない。忍足の言葉を反芻し、考えているようだった。
「居ない、人?」
「多分、面影とかそないな言葉の意味を含んどるんやと思うねんけど」
「あ、そっちか」
「俺も詳しくは知らんけどな。勉強したわけやないし」
「はいはい、趣味でね。あー、頭いい奴は何でも出来ていいよな!」
「それは跡部に云ったって。あいつのが頭ええやろ」
「あれはもう追いつけねえよ」
二人の言葉に気をとられていたが、気づけば三人とも着替えを終えていた。
このままではキリがないと思い部室の鍵を手に取る。
「オラ、もう行くぞ」
部室を最初に出た向日が、うわ、と声を上げた。
「何や?」
「ほら、月―――」
冬の空にその満月は煌煌と照っていた。
その大きさは幻覚と思えてしまうほどの存在を置き、明かりはさながら強過ぎるストロボのよう。
「すげー。やっぱ満月ってでかいよな」
そう云いながら、向日は歩き始めた。
忍足も向日に続いて歩き出す。
数歩進んでから、部室を出た処で立ち尽くしている俺に振り返った。
「ほら、跡部も早く」
「―――ああ」
後ろ手に扉を閉めて、足元に眼を落とす。
夕闇に紛れて、自分の影が細く長く延びていた。
かげ【景・影】 [名]
1.(日・月・灯火などの)光。
2.光によって見える物や人の姿。
3.鏡や水面などに映る物の形や姿。
4.眼前に居ない人の姿。心に思い浮かべる形や姿。
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