枯れ野が原

「寝てもさめても忘れぬ君を 焦がれ死なぬは異なものよ」

 月が大きい。

 胸元まで届く高さの草葉が揺れて、ざわめいた。色はない。白でもないが、緑でもない細長い葉の、切っ先が幾度も忍足の腕を傷めつけようと掠めた。
 風が吹く。素肌にはつめたく、微かに感じる痛みは吹きつける風なのか、掠める葉なのか測りかねる。壮大な無音の中、時折ちりちりと痛むことで、意識はまだ、連れてゆかれはしない。
 忍足は一度深く息を吸って、改めて辺りを見渡した。黒い背景、見渡す限り凶器のような草葉が生き物であるかのように蠢いている。一人きり立ち竦むには、あまりに寂寞としていた。思いがけず、恐怖すら感じてしまいそうなほどに。

 頭上に大きな丸い月が、浮かんでいる。

 真っ赤なその色は、喰らいついてくる口のようにも見えた。黒い闇空に色のない草原、そしてその中空に浮かぶ、赤い月。
(ここは、どこだ?)
 月を見上げ忍足はただ茫洋と立っている。肌寒い風の中、そのゆるく握られた掌にはじんねりと、汗をかいていた。不規則に襲う風は忍足の体温を一層下げて去ってゆく。

(ここは、どこだ?)

 上へ向けていた顔を正面へ戻した瞬間に、軽い眩暈に見舞われた。思わず目を閉じる。静かに呼吸を整えて、ゆっくりと視界を開いた。さきほどと同じ草葉が揺らめいているのを確認する。その背景はやはり黒い。正面を向いていても、視界の上方には赤い月の端が映りこんでいる。
 ―――その、中に、人影が、見えた。横顔の輪郭。

「跡部!」

 反射で叫ぶと同時に、轟と風が吹きつけた。
 自分の黒髪が視界を邪魔してもどかしく、片手で乱れないよう押さえる。腕を上げた時、今度こそ本当に傷ができたと感じた。熱さが一本の線になって腕を走っている。どうでもいい。
 不気味なほど赤い月の下に見える影は、表情こそ見えないが、よく知った人物のもの。

「跡部!」

 相手が気づいた様子はない。忍足は一歩、足を踏み出した。がさりと葉が脆く折れる。月の光がやけに眩しく、彼の反応を捉えられない。もどかしい。跡部。

 はっと、顔を上げた。
 ダイニングテーブルに伏せたまま眠ってしまっていたらしい。部屋は薄暗く、開け放たれた窓から、風が鈴虫の声を連れ吹き込んでくる。
 その窓の近くに置かれたソファに、跡部が横たわり眠っていた。夏の基準服を着たまま、ネクタイは外されている。眠りは存外、深いようだった。風が柔らかい髪を撫で上げて去る。

(跡部、)

 忍足は立ち上がり、足音を忍ばせてソファへ近寄った。傍に跪き、青白い月の光に照らされた跡部の頬へと手を伸ばす。呼吸を詰める。指先が、触れる。

 赤い月が、跡部を呑み込もうとしているように見えた。
 どれだけ雑草を踏み潰し近づいても、届かない。腕を伸ばしても、ただ虚空を掴み損ねるだけだった。爪が掌を傷つける。

「跡部、」

 遥か遠くに、遠吠えのような響きを聞いた。それに背を押されたようにも、動きを一瞬止められたようにも感じて途惑う。跡部の姿は視えているが、依然として反応はない。
「―――跡部」

 添える程度の弱い力で触れた跡部の頬は、驚くほど冷たく、思わず手を引いた。刹那、り…と鈴虫の強く鳴く声が耳を打つ。風。そう、風があるのだ。だから跡部の身体はこんなにも冷えてしまった。忍足は開かれていた窓を閉めた。風も鈴虫の鳴き声も一切が断絶され、ただ目の前に、跡部が眠っている、それだけになった。
 触れた忍足が驚くほどに跡部の体温は下がっていたが、本人は気づくことなく、昏々と眠っている。

 ひどく泣いて縋りたい気分になったが、その相手を掴めないまま。

 風はもう、ない。

(それだけの話。)

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