離陸音に砕け散る

「惚れた証拠にゃお前の癖が いつか私のくせになる」

 窓際の席の眺めの良さが気に入って店に入り、忍足は適当に、メニューの一番上にあったプレートを注文する。
 パンにサラダ、スープとコーヒー。朝食というには遅く、昼食にするには早い時間だった。

『明日から一週間、日本に戻る。都合がつけば会えるがそっちはどうだ?』
 四ヶ月ぶりに聴いた声の告げる用件はいたって簡潔だった。隙がないから、浮かぶ疑問のひとつも挟めない。
 一呼吸、真っ白になった頭で言葉を噛み砕く間を置いて、すぐに切り返す。
「明日は?」
『着いたら家に向かうだけだ』
「その前に会えへん?」
『出来ないこともないが、あまり長い時間はとれないぞ』
「構へんよ。空港まで行くし」
『暇だな。じゃあ、着いたら連絡する』
 それが昨日のこと。

 プレートはすぐに下げて、コーヒーカップだけを手元に残し、本を開いた。白い紙と規則正しく並んだ活字の向こうで、鉄の塊が青空を何度も行き交う。
 空港内に響き渡るアナウンスが常に人を動かしていて、留まったままの自分は隔絶されているように感じた。ここからどこかへと離れてゆく、あるいはここへと辿り着く人々が生む喧騒が心地好い。空港という場所は中継地であるにも関わらずどこか非現実で、不思議な浮遊感をもっていた。
 連絡を待っている状況なので携帯電話をコーヒーカップの隣に置いたが、時間は確認しなかった。自分はここで跡部を待っている。連絡を受ければ落ち合える。それでいい。
 ゆっくりとページを繰る。口調は粗くても本を扱う手はいつだって丁寧だった、その骨ばった指を思い浮かべながら。

 昼前に忍足がここへ来てから、もう何度も隣の客が入れ替わり立ち替わり、短い時間を過ごしている。ビジネススーツに身を固めた男性、白髪の美しい老婦人、やたらと楽しそうなパンツルックの女性。
 そうしてまた一人、席を立ち、もうそんなことを気にも留めていなかった忍足のすぐ隣で、焦がれた声が囁いた。
「そのコーヒーは何杯目だ?」
 振り返った時には跡部はもう隣の席に腰掛けていて、視線は微妙にずれて合わなかった。小さめのスーツケースを器用に手元に引き寄せる、その滑らかな動きに目を奪われる。そんな自分を跡部が見ていることに気づき、バツが悪そうに答えた。
「一杯目、やけど」
「それはまた、随分と長持ちするコーヒーなんだな。で、カップでアイスコーヒーか?」
 手元のそれが冷めきっていることなど見抜かれている。忍足は苦笑で返した。
「予定より早かったやん?」
「荷物の受け取りがな。着陸は予定通りの時間だったぜ。――たく、何時から居たんだよ」
「昼頃やったかな」
「早すぎだ。俺は17時半を指定したはずだが?」
「やって、跡部絶対指定より早く来るやろ?」
 飄々と云ってのける忍足に、跡部は呆れ顔を見せてから笑う。その向こうに見える窓の外はとうに陽が暮れている。滑走路を照らす照明が多方向から機体を照らして、黒い筈の世界は存外、明るかった。
「で、お迎えは何時に来るん?」
「ああ」
 跡部は忍足が放置していたカップを取り上げて一口啜り、顔を顰めてすぐに戻した。
「迎えは呼んでいない。何時になるかわからねえからな」
「――そうなん?」
 長くて一時間を見込んでいた忍足は――それは早く来て待っていた理由のひとつでもあるのだ――素直に驚く。それを見た跡部も、してやったりと云わんばかりの表情を隠さない。
「とりあえずエスプレッソ。それから、テメエもおとなしく二杯目を買って来い」
 下された命令に忍足は不必要なまでに近づいた耳元で了解、と答え、咎められる前に席を立った。

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