予定外の

大学生で同居/成人/付き合ってない

 同居人に助けを求めたことは覚えているが、文面までは定かでない。
 アルコールに強くない自覚はあった。だから外では少し舐める程度にするか、羽目を外してみたい時は自宅で嗜むようにしていたのに、外で浴びるように飲んでしまったのは大学でも特に仲の良い友人の失恋を慰める会だったからだ。自棄になった彼にお前も飲めと次々注文されてしまっては、目の前に置かれたジョッキを無下にすることは、真琴には難しかった。
 記憶があるのは最初の二杯だけで、その後はなにを何杯飲んだのか、誰となにを話したのかもわからない。途中で気分が悪くなり、吐き気から逃げるようにして端の席に突っ伏して眠った。サシ飲みでなくてよかった、さすがに二人での食事中に眠ってしまうのは申し訳がない。
 水を飲め、と何度か起こされて、言われた通りにしたような気がする。ふわふわと水面を漂うような眠りの中、息継ぎのようにして瞼をうすらと開いたのと同時に、今日の主役の友人に肩を揺さぶられた。
「橘、意識ある? 起きれる?」
 ぼんやりとした視界はピントがうまく合わない。目の前にある顔の向こうでは、同席していた友人たちが立ち上がっているのが見えた。
「あれ……みんな」
「悪い、お前弱いのに飲ませちまって」
「ごめん、俺寝ちゃって」
「いいよ。時間だから出なきゃいけねえんだけど立てる?」
「お会計……」
 身体を起こすと、胃の中身がぐるりとかき回された気がした。こみ上げる気持ち悪さを無理矢理押し戻す。立ち上がろうとする手を友人が助けてくれた。
「最初に会費徴収しただろ」
「そうだっけ」
 よろめいて壁に肩をぶつけたが、足元の感覚はある。隅に放っていたメッセンジャーバッグを背負って、まだ眠りに沈みたがる頭を叩き起こして居酒屋を出た。
「家か、せめて最寄り駅まで送ろうか?」
 そう申し出てくれたのは一人ではなかった。今の自分はそんなに酷く見えるのだろうかと不思議に思う。真琴は、んー、と唸りながらポケットからスマートフォンを出し、短く操作した。
「ありがとう……でも迎えに来てもらうから、大丈夫」

 十五分程度の乗車時間が永遠のようだった。まだ着かないのかと電車内の液晶表示と睨めっこをすることで、寝過ごしてしまうのを回避する。
 電車を降りて外の空気を吸うと少しはましになった気もするが、それでも頭の奥の方がずきずきと刺すように痛い。口の中には吐き気に近い苦味もあるし、呼吸がアルコール臭い自覚もある。良くない飲み方をしてしまったのだと全身が訴えていた。
 未だあまり覚束ない足取りで改札を通り抜けると、真琴が顔を上げるより先に同居人の声が届いた。
「真琴!」
 声のした方を向くと、人生で一番長く一緒にいる男が走ってくるのが見えた。
「ハル」
 遙はいかにも部屋着ですといった格好のまま、終電間際でそれなりに人の多い駅前をくぐり抜ける。
 真琴は安心させるつもりで手をひらひらと振ってみせた。すると遙は淀みない動きでその手を取り、ぎゅうと握りしめる。
「ごめん、わざわざ」
「そう思うなら気をつけろ」
「うん」
 遙は真琴の手を引いて歩き出した。おとなしく従いながら、子供にするみたいだ、と笑う。触れ合った部分はひどく熱くて、気温の下がる季節の中でそこだけ燃えるようだった。
「大丈夫か、少し休むか」
 口数の少ない真琴を怪訝に思ったのか、形のよいまるい頭が振り返る。心配させているのだと思うと途端にむず痒くなった。こんなことで気遣わせるのは申し訳ないし、恥ずかしいし、すこし嬉しい。
 それにしても、こんなふうに連行するみたいにされるとは。
「なあ、俺、ハルになんて送ったんだっけ?」
 答えの定まった質問のはずだ。しかし遙はじとりと真琴を見て、はああ、と長く溜息をついただけだった。

 夜の散歩に気をよくしたのは最初だけで、歩いているうちに身体の中に溜め込んだアルコールがまた主張を始めた。知らず手に力を込めてしまって、気づいた遙がまた、休むか、と訊いてきた。黙って首を横に振る。とにかく早く帰りたかった。
 家に着く頃にはもう、遙についていくだけで精一杯だった。
 遙が立ち止まったことでつんのめるようにして真琴の歩みも止まり、顔を上げて初めてそこがアパートの薄いドアの前だと気づく。繋いでいた手がするりと離れてゆき、取り残された手のひらが寂しくなった。
 ちゃり、と微かな金属音がした。遙が鍵を使っているのだろう。
「真琴、おい」
 脱力するようにしてしゃがみ込んだ真琴の頭上から、耳心地のよい声が真琴を呼ぶ。
「……気持ち悪い……」
「しっかりしろ、あと五歩頑張れ」
 適当な歩数で励ましながら真琴の腕を引っ張り上げる力は存外に強い。そのまま家の中に引きずられ、有無を言わせずトイレに連れて行かれた。
「ほら、吐いちまえ」
 遙は真琴の後ろにいて、真琴からはどんな顔をしているのかわからない。それでも声と雰囲気だけで、仕方がないと呆れられているのはわかった。二十年間一緒にいて、わかっているつもりでわかっていないこともあるのだと知ったのはつい数年前だが、今回のこれは確実にわかっているほうのことだった。
 情けないと思っても、真琴には従うことしかできない。床に膝をついて俯けば、真琴を苦しませる元凶はどろどろと口から零れ落ちた。苦くて苦しくてじわりと涙が浮かぶ。えづく真琴の背を遙はあやすように撫でて、その触れた部分もやはり信じられないくらいに熱く感じた。
 立ち上がる頃には酔いも覚めて、あとにはただ割れるような頭痛だけが残った。冷静になると随分とばかなことに遙を付き合わせてしまったのだと自覚する。ごめんと言うと、遙は返事の代わりに水の入ったコップを押しつけてきたので、真琴はそれを飲み干した。
「明日午後からだろ、もう寝た方がいい」
「はる……」
 遙が真琴のスケジュールを知っているのはカレンダーで共有しているからだ。一緒に暮らしているのだからそれくらいは当然のことで、なにも特別なわけではない。
 布団に潜り込むと急に身体が重くなったような気がした。重力に従ってまっすぐに眠りに落ちてゆけそうだ。次に起きた時に頭痛が治まっていればいいのだけれど。
「すき」
 瞼がするりと落ちるのと同時に意識も途切れてしまったから、遙がどんな顔をしてなにを言ったのかはわからない。それでもきっと、やっぱり呆れているのだろうなと思った。

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