point of no return

第7滑走まで観た印象

「僕を抱きたい? それとも抱かれる方がいい?」
 酒は浴びるほど飲んだけれどまったく酔ってはいなかった。ただ勇利の視線に一定の熱があることはわかりきっていたし、ヴィクトルとしては提案したどちらを採用されてもかまわなかった。そうして、勇利が本気ならば彼の望む恋愛の形をとることも、そうでないなら演技者の経験としての相手になれるだろうと、つまりどう転んでも、なんらかの形で勇利にとって糧となる発言をしたつもりであった。
 ところが勇利は真っ赤な顔で──浴びるほど酒を飲んだせいだ──黒い瞳を丸く見開くと、この世の絶望を煮詰めたような顔をした。勇利のメンタルはわかりやすく、調子の良くない様子も何度も見てきたが、練習中にきつく駄目出しをした時も、本番でジャンプを失敗した後も、こんな顔をしたことはない。ヴィクトルがコーチを務めるようになって一定の時間が経ち、緊張や憧れによる隔絶がようやく薄れてきたと感じていたのに、いま再びふたりの間に、見えない壁のような空気が張り詰めた。
「どうして」
 勇利が酒ですこし焼けた声で呟いた。瞳はまっすぐにヴィクトルを見ていたが、ヴィクトルには自分ではなくなにか別のものを見ているのではないかと思われた。
「どうして、そんなことを言うの、ヴィクトル」
 先の発言に対しヴィクトルが予想していた勇利の反応のうちどれでもなかった。受け入れられるか、謙遜のように表面上の拒否をされるか、あるいは一気に火をつけるか、勇利の選ぶ方向に関係を進展させるつもりだったのに、勇利の唇の震えは歓喜からは程遠い。
「僕がそんなに物欲しそうな顔をしてた?」
 なにかをしようとしたらしい勇利の手がテーブルの上を彷徨い、汗をかいたグラスに掠ってなにも掴まず落ちた。ヴィクトルは勇利を見る。目を、鼻を、唇を、耳を、首を、肩を、腕を、指先を、そしてまた目を。どこを見ても全身が拒絶を表していた。
 ヴィクトルは努めて明るい声を出した。
「だって勇利、言ったろう? 離れずにそばにいて、って。親密な関係になれば、離れずにずっとそばにいられる。そんなふうには考えたことはない?」
「ないよ」
 勇利の舌はうまく回りきっていないが、きっぱりとして聞き違えようのない言葉だった。
「ないよ。一度もない」
 このコーチはずっと自分がそんな目で彼を見ていると思っていたのだろうかと考えると、勇利は身体の芯が凍りつく心地がした。あの時も、あの時も、あの時も、ヴィクトルが初めて長谷津へ来た時も、そして今も、勇利がヴィクトルに傾ける情をそのように解釈されていたのかと思うと叫び出しそうになる。相手がヴィクトルでなければ殴るか、無言でこの場を去っていただろう。
「ヴィクトルが好きだ。離れずにそばにいてほしいよ。僕の一番そばにいて、僕のスケートを観ていてほしい。そうして、いつか僕がヴィクトルを超えることができたら、ハグをしてよくやったって褒めてほしい。だから、僕はあなたにそばにいてほしい」
 酔っているのと興奮状態で口数が多い。けれども瞳はひどく冴えて冷静で、静かにヴィクトルを映している。アジア人の暗い色の瞳は控えめな照明の中では淀んで見えて、そこに映った自分がどんな顔をしているのかは、ヴィクトルには見えなかった。
 勇利の手がゆるりと動いて、ヴィクトルの手の甲に重なる。さっきグラスを掠めた手だ。痛いと抗議したくなるほど握り締めてくる熱い掌の感触は、性とはおよそかけ離れていた。けれど、それでも、勇利はその手を離しはしない。
「それじゃいけない?」
 教え子の向けてくる憧れが、牙を剥いてヴィクトルに振り下ろされる。

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