コンラッドの昔の女(複数)が出てくるのでそういうの大丈夫な人向け
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わたしはそんなことを訊かなかったし彼ももちろん言わなかったけれど、わたしと肌を重ねるまで、彼は童貞だった。
魔族に顕著な美しいかんばせではなくともじゅうぶんに整った目や鼻や唇はまだ成長途中で、これからもっといい男になるだろうと思った。その姿を見る機会はおそらくわたしにはなく、それが少し残念だ。半分人間の血が混じっているせいか外見から年齢の判断はつかない。言葉遣いが落ち着いているのは軍人だからか、漁師の旦那と比べると彼の方が年上のような気すらしてくる。
けれどそれもどうでもいいことだ。名前も年齢も知らないことは、この行為の妨げにはならない。
どこで覚えてきたのやら、彼がわたしの身体をひらく手順は概ね正解で、わたしの仕事といえば「わたしは別に構わないけれどもっと初心な小娘を相手にするならこうした方がいい」ことを教えてあげるくらいだった。勘がいいのか覚えがいいのか相手の反応に敏感なのか、おそらくその全てが正解で、わたしはちゃんと気持ちよかった。
彼は喋る時よりも低い声で短く喘ぐ。明かりを落とした部屋でも、色素のうすい瞳が昏くぎらついているのがわかって高揚した。鬣のような茶色い髪が、キスの代わりに頬をくすぐった。
*
亡くなった夫のことを、思い出さなかったわけではない。
先立たれた悲しみは時間が薄めてゆき、私はときおり酒場へ顔を出す程度には日常の流れに戻っていた。ひとり遺されても死ぬ気は起きなかったし、それならば、働いて食べなければ死んでしまう。生きている限り欲がある。
馴染みの酒場で隣に見知らぬ男が座った時、私はすこし酔っていた。
亡くなった夫のことを、思い出さなかったわけではない。むしろ逆だった。ちらりと盗み見た面影は、気難しい部分もあったものの誠実だった夫に似ていた。あるいはそう感じたのもただの願望だったのかもしれないけれど。
試しに話しかけてみれば彼は存外口数もあり、話が弾むのに合わせて空いたグラスの量も増える。事情も知られていない相手と話すのは気兼ねがなく楽しかった。そんなふうに思えるのは随分と久しぶりで、だからこの時間を終わらせたくなかったのだ。
幸い──これを幸いと言ってはいけない気もする──私は子供もおらず一人暮らしだ。家に帰ればひとりで眠るにはいささか広い、冷たいベッドが待っている。
「飲みすぎたかしら」
「送ろう」
何杯目かもわからないグラスを眺めながら呟いた誘いに、彼は正しく乗ってきた。
ありがとうと受け入れて席を立つ。立ち上がって共に歩きながら、背格好も似ている、と思った。あのひともちょうど彼くらいの背丈があった。似ているところを探したのは、罪悪感があったからかもしれない。全く似ていないわけでもないし、と私は私に対しても言い訳をした。似ているから、だから、仕方がないのだと。
ただセックスは、彼の方が夫の何倍も巧かった。
*
一生一緒にいられるなんて、もちろん最初から考えてはいなかった。
彼は遠征してきた軍人で、あたしはこの小さな町の小さな店の店番で、本当なら出会うことなんてなかった。知り合いに見つからないようにこそこそと顔を隠しながら宿に部屋を取ったのだって、あたしが強引に彼を引きずっていったようなものだ。でも彼だって嫌な顔はしなかったし抵抗もされなかったから、あたしのせいだけじゃない。
娯楽の少ない生活で、見目のよい行きずりの男と夜を過ごすというのはどうしようもなく魅力的だった。だからあたしは何度も彼を誘ったし、彼もそれに乗った。あたしは浮かれていた。
「もう会えない」
そう言われて、どんな顔をしたんだったっけ。
いつか離れていくことはわかっていた。あたしがこの町からは出られないことも。
それでもあっさり、はいそうですか今までありがとう、なんて言えなくて、あたしは駄々をこねた。彼は困っていた。それはそうだ、別にあたしは彼の恋人でもなんでもないし、ていのいい性欲処理の相手に過ぎない。お互いに。
興奮状態のあたしを彼はなんとか宥めようと言葉を尽くした。彼の言うことは全部正論だった。 子供を優しくたしなめるような声を聴きながら、だんだん悲しくなってくる。優しくされたくてこんなふうに意地を張っているわけじゃないのに。いっそ怒って殴ってくれたらいいのにと思っても、彼はそんなことはせず、静かに背を向けた。
*
夜は休息の時間なのだと、俺に教えてくれたのはユーリだった。
顔しか知らない女のもとへ行くのでも、戦場で闇に紛れた敵襲に備えじっと見張るのでも、飲みたいわけでもないのに飲み明かすのでもない。ユーリは自他共に認める早寝早起き健康優良児で、彼の同世代が無意味にしたがるような夜更かしもせず、夜のいい時間になると必ずベッドに入った。
同時にその日の俺の護衛としての仕事も終わりになる。城の居室へ戻るともうこれからなにかをしようという気も起きない。耳の奥にはさっきまで一緒だったユーリの声がまだ残っている。今頃は大きなベッドに沈んで眠りに落ちているはずで、どうか悪い夢をみてはいないようにと願う。
こんな夜に、他になにをするのももったいない。だってこんなに満たされているのだ。女の身体がなくても、ひとりのベッドでこんなにも満ち足りた気持ちで眠ることができる。百年の時を過ごす中で、こんなふうに夜を迎えることは今までになく、いっそ新鮮で感動すら覚えた。こんなことを言ったらユーリは大袈裟だと笑うだろうが、ほんとうに、こんな夜は彼がこちらへ来るまで終ぞなかったのだ。月明かりは獣の影を見つけ出すためではなく、安らかな寝顔を見守るためにあるのだと、誰も教えてはくれなかった。
魔王陛下のものとは比べ物にならない、簡素な俺のベッドにも月明かりは注ぐ。
次に目が覚めたらユーリを起こしに行くという仕事が待っている。開ききらない黒い瞳に俺を映して、少し掠れた声で、おはよ、と言われるのが好きだった。それが俺にとっての朝の始まりの合図だ。
穏やかな夜も清々しい朝も、全部彼が連れてくる。俺の世界はユーリが回している。
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