コウヒロ21歳(あまり気にしなくてよい設定)
舞台に出るヒロと運転免許持ってるコウジ
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「黙れ!」
金切り声にも近い不快さを伴ってヒロが叫んだ。立ち上がった反動で木製の椅子が倒れ、ガタンと大きな音を鳴らす。ヒロは肩を大きく上下させていて、興奮している様子がびりびりと伝わってきた。
それなりに一緒にいていろんな場面を共にしてきたけれど、コウジはヒロのこんな声を聞いたことも、こんな様子を見たこともない。呼吸も忘れ、息を詰めてその姿に見入る。
「でも……」
怒鳴られた小さな子供は怯えきっている。か細く震える声で精一杯の抵抗をしようとしたのだろうが、今のヒロの激昂したさまの前ではなんの意味もない。むしろ火に油を注ぐようなものだ。
「うるさい!」
ヒロがまた怒鳴り、子供を殴った。
ぱん、と乾いた音が高い天井に響き渡る。ものを食べているのか心配になるほど細く小さな身体は殴られた勢いで倒れ込み、俯いたまま顔を上げない。
子供は抵抗をやめたのだ。ヒロの暴力に、服従することを選んだのだ。
中途半端に伸びたまま整えられもせずぐちゃぐちゃの髪の下、どんな表情をしているのかは見えなかったが、嫌になるほど想像がついた。
子供がおとなしくなってもヒロはなお満足していないようだった。倒れた身体のそばを大きな足音を立てながら歩き回る。威嚇しようとする態度を隠す気などない。
ひどい形相で子供を見下ろし、吐き捨てた。
「お前なんか生まれてこなければよかったのに!」
「コウジ!」
楽屋を訪ねると、コウジが声をかけるより先にヒロが気づいた。見知った笑顔で名前を呼ぶ姿にほっとする。
さっきまで板の上に立っていたのは確かにヒロだった。どう見てもヒロなのに、どう見てもヒロではなかった。人が変わってしまったのではないかと不安を覚えるほどの芝居だった。
そのヒロが今、楽屋にいて、さっき舞台でヒロに殴られた──という演技をしていた──子供を膝に乗せ、楽しそうに笑い合っている。
子供はヒロの反応でコウジに気づいてこちらを向き、ぺこりと頭を下げた。
「お疲れさま。よかったよ」
労いの言葉は、ふたりに向けたものだ。
本心だ。ヒロが舞台で子供を虐待する若い父親の役を務めると知った時はさすがに驚き、少なからず心配した。観ている間も何度も背筋が凍りそうになった。ヒロの演技は凄まじく、役柄と現実の境界を見失わせるほどの気迫があった。
「来てくれてありがとう!」
それが今は芝居の面影もない笑顔で子供を構っている。役とのギャップに目眩がしそうなほど。
賢そうな子役の子供はヒロの膝からぴょんと飛び降り、ヒロを見上げた。ヒロは上半身を屈めて顔の高さを子供の視線に合わせる。
「速水さん、ありがとうございました」
「うん、ありがとう。また明日ね」
「はい!」
子供はもう一度コウジに会釈して楽屋を出て行った。小さな後ろ姿はどこにでもいる小学生のようで、こちらもやはり、舞台での役柄との差に息を呑む。
「すごいね、あの歳で……あんな」
「うん。俺も負けてられないな」
「ヒロも、」
ヒロだって、身内の贔屓目なんかじゃなく、素晴らしかった。彼自身の生い立ちを思えばなおのこと。
けれどそれを本人にどう伝えればいいのか、言いかけた言葉を続けることができず、コウジはゆるく首を振って話題を変えた。ヒロはもうメイクを落としているし、衣装ではなく私服を着ている。これ以上劇場に用はないだろう。
「車あるから、送るよ」
助手席にヒロを乗せるのはたまにあることだった。電車を使うと騒ぎになってしまうし、コウジが車で来ているならタクシーを呼ぶまでもない。互いにソロの仕事が増えている中で、送り迎えする車内の数十分間は誰にも邪魔されない貴重な時間だ。
ヒロは車に乗ってからずっと黙っていた。自分から言いはしないが疲れているのだろう。無理に話をしたいわけではないから、コウジも口を開かずに車を走らせる。
主要な道路もヒロの家までのルートも、もうずいぶん前に覚えた。なにも考えなくても最短ルートで送り届けることができる。
沈黙に包まれた車内は、ウインドウの向こうに見える夜の都内の眩しさから切り離されていた。その空気は、劇場のそれに似ている。
何度目かの信号待ちで停止する。交差点にいると、あちこちからネオンが射して一等眩しい。ちらりと助手席に目をやると、正面を向いたヒロの横顔が見えた。
ネオンの光を浴びた横顔はなんの感情も浮かべていない。ただ前を見ている、あるいは、目の前にある道路などまったく見ていないのかもしれない。そのつめたい顔は、舞台の上にいた、別人のようなヒロを思い起こさせた。
「ヒロ……、ヒロ」
思わず声をかけるとヒロはひとつ瞬きをしながらゆっくりとコウジを見た。底のないように見えた瞳にコウジを映し、柔らかく微笑む。
「うん? なに?」
向けられたのは、コウジのよく知っているヒロの顔だ。
「……ううん」
なにも言えない。言えるはずがなかった。コウジが感じている胸のざわめきを、コウジ自身ですらうまく掴み取れていないのに、ただしく言葉にして伝えることなどできない。
「もう着くよ」
そんな、当たり前でわかりきっている事実だけが声になった。
マンションの前で車を降りたヒロは、わざわざウインドウからコウジを覗き込む。いつもの仕草だった。
「いつもありがとう。おやすみ」
「またね」
ヒロの背中がオートロックの向こうに消えたことを確認してから、コウジはアクセルを踏み込んだ。助手席に残るさっきのヒロの気配が、まだコウジをざわつかせる。
あれは演技だ、ヒロ自身の顔ではないと頭では理解していても、それに追いつけない感情がある。
はやく、何事もなく公演が終わるといい。それ以外に、この感情を鎮める方法がわからなかった。
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