土方と近藤と沖田。昔の話
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廊下の床板を擦る微かな音で土方は目を覚ました。
皆とうに寝静まっている時刻で、あたりはしんとしている。時折びゅうと強い風が襖を揺らすがそれ以外はなんの音も気配もなく、だから隠すようなその足音にもすぐに気づけた。
腕の中ですうすうと寝息を立てている沖田を起こさぬようにしてそっと身を起こす。悪い予感を必死で振り払いながら襖を開け、祈りが届かなかったことを知った。夜風に混じって届くのは紛れもなく血のにおいだ。
「近藤さん」
背中に声をかけると、困ったような諦めたような表情の近藤が振り向いた。着物を掴むようにして胸元を押さえていて、暗がりでもその手が黒く汚れているのがわかる。それを見た瞬間にどんな顔をしたか自分では見ることができないが、ひどく優しい声で、トシ、と呼ばれた。
「すまん、傷薬を持ってきてくれないか」
声を荒げたかった。誰にやられたのかと詰め寄ってそいつを今すぐに斬り捨てたかった。けれどもこう言われては、土方には薬を用意するほかない。
「……はい。部屋にいてください」
近藤がほっと息を吐いてまた背中を向ける。怪我をした人間に気を遣わせてしまったのだと思うと未熟さを突きつけられた気分で、苦虫を噛んでいるほうがまだましだった。
鎖骨の下を斜めに走った傷は深く、蝋燭の灯りの中で赤い肉が覗いていた。眉間に皺が寄るのがわかる。手拭いを濡らして、努めて丁寧にゆっくりと汚れをなぞると、布はあっという間に赤黒く染まった。
「トシ」
またあの声で呼ばれる。一度ぎゅっと目を瞑ってから深呼吸して、傷薬の器を手に取った。道場では生傷が絶えないから普段から作って置いているものだ。できるならこんなことで使う機会はあってほしくなかったが、いつでも起こりうる傷でもあった。自分たちがしているのは、そういう仕事だ。
「そんな顔するな」
「近藤さん」
一歩間違えれば生きて戻らなかったような傷を負ってなお、近藤は普段と同じように笑っていて、それが土方の心臓をぎちぎちと締め上げた。共に選んだ道だから止めることはできない、彼の強さは知っている、それでも、今日よりもっとひどい傷を負わないという保証はどこにもない。
止めることはできなくても黙っていることもできなくて口を開きかけたところに、別の声が割って入った。
「土方さん?」
廊下をぺたぺたと歩く小さな音。そんなふうに歩くのは、この家には一人しかいない。
薬の器を置いて土方が襖の前に寄るのと、小さな手が襖を開けるのはほぼ同時だった。
「近藤さ……わっ」
「総司」
近藤の部屋の中を覗いたつもりが視界いっぱいに土方の姿が映って驚いたのだろう、寝起きの沖田が目を丸くして土方を見る。常より低い声で呼ばれ、一拍置いて沖田の表情が歪んだ。
少しだけ開いた襖の前に土方がいて、部屋の中の様子はわからない。近藤の姿も見えない。それでも空気が外と混じって嗅覚に届き、幼い沖田の黒い記憶を刺激した。傷つけ、傷つけられる光景にそれは必ずついて回る。近藤と土方のもとに来てからは負っても小さな切り傷程度だったから、こんなにもはっきりと血のにおいを嗅いだのは久しぶりだった。
深夜の近藤の部屋に、家の薬を預かる土方がいる。血のにおいに、いつか沖田も使ってもらったことのある軟膏のにおいが混じっていることに気づいた。傷の主はひとりしかいない。
「近藤さんは?」
「中にいる。……後で呼ぶから、部屋に戻ってろ」
群青色が静かに沖田を見つめている。堪えるような声だった。粘っても部屋に入れてもらえないことが伝わってきたし、まだ手当ての最中ならば自分に構うよりも先に近藤の傷を治してほしい。
「ぜったい呼んで」
「ああ」
土方は冷えた手で沖田の頭をすこし乱暴にかき混ぜて、襖を閉じた。思ったよりあっさりと引き下がったことに感心しながら振り向くと近藤が奥歯を噛み締めていて、慌てて近寄る。
「痛むのか、近藤さん」
「ああ……いや、傷は耐えられるが」
どう見ても痛まない傷ではない、現に肌には汗が浮いている。それでも近藤が耐えられると言うのなら、彼は本当に耐える人だった。
「お前たちにそんな顔をさせてしまうのは、な」
あやすように言われて今度こそ泣きそうになってしまった。理想に身を投じ、深傷を負ってなお土方や沖田を気にかける、そういう人だから救われ、道を正せたのだ。だから絶対に失えない。
「わかっているなら二度とこんな怪我しないでください」
語気が強くなってしまったけれど大目にみてほしい。もちろんそんなことは近藤はわかっていて、薬を頼む、とだけ言った。
部屋に戻れと言われた沖田は、そのままその場に座り込んでいた。素足に触れる廊下はひやりとつめたく身体を冷やしたが、ぶるりと震えが走るのはそのせいではない。
燃え盛る炎の中で出会ったときから、近藤と土方は沖田を守ってくれる存在だった。炎の外へと連れ出し、傷を癒やし、帰る場所をくれた。剣の稽古をつけて、筋がいいと褒めてくれた。褒められるのも上達するのも嬉しかったし、二度と悲しい目に遭わずに済むように強くなりたかった。
──けれど、それでは足りない。
自分の身だけを守れる程度では足りない、人を守れるくらいに強くならなくてはいけない。近藤と土方を守れるように。彼らとて斬られれば血を流す、完全無欠ではないのだから、二人の役に立てるように。沖田の存在は、そのためにある。
「総司」
襖を開けて土方が顔を出す。沖田は抱えた膝に伏せていた顔をぱっと上げた。土方の表情はさきほどよりは幾分か和らいでいるし、血のにおいも薄くなっていた。
「入っていい?」
「ああ」
転がり込むようにして部屋に入ると、奥に座っていた近藤が目を細めて沖田を見た。駆け寄って抱きつこうとし、しかし胸に巻かれた包帯に気づいて立ち止まる。負傷したのだろうとは思っていたが、その姿を目の当たりにするとどうしても包帯の下の傷口を想像してしまう。どれほどの大きさ、どれほどの深さなのだろうか。どれほどの痛みが近藤を襲ったのか。
包帯のあたりを見下ろしたまま固まった沖田の手を、近藤がそっと掬い、引いた。
「こんどうさ、」
「大丈夫だ」
抱えられるようにして胸元に倒れこんだ沖田の身体を近藤の両腕がしっかりと支える。傷を慮った沖田は包帯に触れないよう注意していたが、安心させるように髪を撫でられ、そっと凭れかかった。包帯の向こうから鼓動が聞こえて、沖田に無事を訴える。
「いたい?」
「痛くない」
「なおる?」
「治るさ」
近藤の返答は明快だった。近藤が治ると言うなら治るのだ、沖田の中ではそういうことになっている。
「近藤さん」
「なんだ?」
呼びかけに応える近藤の目は優しい。ずっとそうして側で見守っていてほしい、そのために沖田にできることがあるならなんでもする。
「なおったらまた、剣のけいこをつけてください」
近藤の着物をぎゅうと握り締める。彼は破顔して、もちろんだ、と請け負った。
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