ばら色の箱庭

コウジを虐めていたモブをヒロがうっかり殺しちゃって一緒に埋めに行く話

 羽交締めにされ、正面に立ったもう一人に腹部を思い切り蹴り上げられて、ああこれはもしかして虐められているのかもしれないと思った。
「目障りなんだよ……ッ!」
 唾棄するような罵声。憎悪を隠しもしない目で見られて、コウジの身体が竦む。蹴られた部分に強い圧迫感があり、呼吸が阻害されて呻き声が漏れた。
「うう……っ」
 痛みはその後にやってきた。ひりつくような痛みが、じわじわと主張を強くする。
「なにを、」
「うるさいっ」
 今度は口を開くなと言わんばかりに頬を殴られた。平手で勢いよく叩かれて頭が揺れる。拳で殴られるよりはいくらかましだろうか。
 放課後、コウジを呼んだ二人の同級生は無言のまま薄暗い校舎裏へと向かった。華京院学園は広く、人の集まる場所は限られていて、それ以外の場所は人目もない。二人は明確な意図をもってコウジを連れ出したのだろうが、コウジはそんな目的など知るはずもなく、だからこの状況は完全に想定外だった。
 ──良く思われていないことは、わかっていたけれど。
 両腕を押さえつけられたコウジに抵抗の余地はほとんどない。足は一応動かせたが、蹴られた衝撃が身体に残っているせいかうまく力が入らなかった。二対一で数では勝てず、コウジには喧嘩の心得もない。下手に抵抗すればまた平手が飛んでくるのは想像に難くなく、抵抗するだけ無駄だと理解すると、腹や脛、胸を断続的に殴り蹴られるのを、歯を食いしばりながら耐えた。
 俯いた視界にはコウジを攻撃する同級生の腕や足しか映らない。だから遠くを通りかかった金色の髪の少年が、こちらを見たことには気づかなかった。

 コウジとヒロが出会ったのは、その数ヶ月後のことだった。
 音楽を通じて邂逅し、同じ未来を見て仲を深める。すぐに学園の中でほとんどの時間をともに過ごすようになった。これによってコウジには副次的な変化があった。これまで幾度となくコウジに暴力を振るってきた同級生が近づいてこなくなったのだ。理事長とのつながりが噂されているヒロに悪意をもって近づくような無謀な生徒はおらず、今までコウジを標的にしていた者は自然とコウジとも距離を置くようになった。消える前に増やされていた痣も、だんだんと目立たなくなっている。
 本当は誰にも見つかることなくきれいに消えたらよかったのだが、ショーの練習がある限りそうもいかなかった。リンクに併設された更衣室、練習着に着替える時に、ヒロはコウジの腕に目を留めた。
「コウジ、それ……」
「え?」
 ヒロの視線を追うと、コウジの腕や腹にいくつかの跡があった。痣や擦り傷がまだ消え切らずに残っているものだ。日常生活で自然とつくようなものではないことはすぐにわかることだった。
「ああ……ちょっと、ぶつけちゃって」
 コウジは曖昧に笑って、隠すように手早く練習着を着込む。ヒロはじっとその様子を見て、気をつけろよ、とだけ言った。
 ヒロの脳裏に浮かんだのは数ヶ月前の校舎裏の光景だった。くだらない、関わるだけ無駄だと見なかったことにして今の今まで失念していたが、思い返してみればあの場で暴力を振るわれていた生徒はいまヒロの隣にいる彼だ。ヒロがこの学園の中で一番大切に思っている存在だ。
 相手の顔も思い出せる。コウジのクラスへ顔を出すと、遠巻きに様子を伺ってくるから嫌でも覚えた。なんとも思っていなかったはずの名前も知らない生徒に対して怒りがふつふつと湧き上がる。ヒロと一緒にいる時には彼らは寄ってこないし、コウジの身体にある跡もいずれ消えるだろう。それでも、自分の大切な人を攻撃した人間がそばにいるという事実は堪え難かった。

 放課後を過ごす場所は決まっている。プリズムショーの練習をするならエーデルローズのリンク、そうでないなら華京院の屋上が、コウジとヒロの居場所だった。クラスが違うから、前日や昼休みにあらかじめどちらへ行くかを決めておくのが常になっている。
 その日は屋上で会おうと決めていた。気候は夏と秋の境で、暑さに苦しめられることもない。半袖で過ごすのもあと少しの期間だろう。
 ヒロより遅れてやってきたコウジは、抱えていたファイルから楽譜を取り出し広げると、あれ、と間の抜けた声をあげた。
「どうかした?」
「足りない。鞄の中にあるかも……見てくるから、ヒロはここにいて」
 そう言うなり楽譜をファイルごとヒロに押しつけ、返事を待たず足早に屋上から出て行った。ばたんと重たいドアの音が響くと、あとにはヒロだけが残される。人のいない屋上は驚くほど静かで、世界にひとりぼっちになったような気がした。
 けれどヒロの手にはコウジの音楽があるから決してひとりではない。目で楽譜をなぞるだけで、コウジの歌に包まれているようだった。紙を捲ると歌は不自然に途切れて、なるほどこの部分が足りないのかと納得する。待っていればコウジが空白を埋める譜面を持ってくるはずだ。教室までは少し距離があるからまだしばらくは戻ってこないだろうが、その数分間すら待ち遠しい。
 目を閉じると嗅覚が過敏になって、薔薇の香りが強くなる。頭の中ではまだコウジの歌が鳴っている。穏やかな時間に割り込むように、またドアの開く大袈裟な音がした。
「コウジ、楽譜あった?」
 声をかけながら瞼を上げる。入り口の方へ目を向けると、そこにいたのはコウジではなかった。
「お前……」
 知っている。もう忘れるはずがない。いつか校舎裏で見た、コウジのクラスで見た、あの生徒だ。
 彼はドアノブに手をかけたまま、ヒロを見てばつが悪そうに視線を逸らした。関わりたくないのだという態度を隠しもしない。ヒロだってコウジのことがなければそのまま気にしなかっただろう。
「待てよ」
 声をかけると彼の肩はびくりと跳ねた。コウジの楽譜をその場に置いて、ゆっくりと歩み寄る。近づいてみるとヒロと身長はそう変わらないが、ヒロよりも体格はよく一回り大きく見えた。
「コウジを追いかけてきたのか?」
 言うと彼は今度は背を向けて、立ち去ろうとする意思を示す。ヒロはその肩を掴んで強引に身体の向きを変えさせた。ちらりと見えた横顔と真正面で受ける視線に、あの記憶が呼び起こされて思考が焼けてゆく。
「な、なんだよ……」
 彼はヒロの手を振り払おうと肩を動かしたが、ヒロは離さなかった。顔を近づけて詰め寄ると彼はその分退いて、ふたりとも屋内に戻る。ヒロの背後でドアの閉まる音がうるさいくらいに大きく鳴った。柔らかく射していた太陽光が遮られ、一転して周囲は薄暗くなる。あまり人の手が届かない場所のせいか、空気が揺れてすこし埃が舞った。
「コウジを殴っただろう」
「は……し、知らねえよ」
「とぼけても無駄だ、俺は見たぞ、校舎裏でお前が」
「うるせえ!」
 屋上への扉の前には階下とつながる階段があって、空間は縦に広がっている。その空間いっぱいを埋めるようにして、ヒロの言葉を遮る叫び声が響いた。
「お、お前には関係ないだろ!」
「関係ある!」
 堰を切るように語気が強まる。
 腹立たしかった。目の前の生徒がコウジを殴ったことも、はぐらかすようなふざけた態度を取られたことも、ヒロには関係ないと言われたことも。
 ヒロは相手の腕を掴んで距離を詰めた。ひっ、と上ずった悲鳴が耳元で上がる。また一歩後ずさられて、往生際の悪さに苛立ちが加速した。
「お前なんかにコウジを好きにはさせない!」
 前に進んで近づいたのは衝動だった。殴りかからなかったことを褒めてほしいくらいだ。
 けれどそれが結果的には引き金となった。
 ヒロにかつてコウジを呼び出していた現場を見られていたこと、声を荒げて詰め寄られていることに彼の足が震える。あ、ああ、と小さく呻き声のようなものを上げながら、じりじりと後退した。
「あ、」
 その声がどちらのものだったのか、ヒロにはよくわからなかった。
 掴んでいた腕が手の中からすり抜ける。目の前にあったはずの顔が後ろへ仰け反って、かと思えば身体ごとヒロの視界から消えた。落ちたのだと気づいた頃には彼の身体は階段の途中に打ちつけられ、そのままごろごろと嫌な音をたてながら転がり落ちて、踊り場で止まった。
「…………え……?」
 不自然な体勢でうつ伏せに倒れたまま動かない同級生の姿を、ヒロは階段の上からじっと見下ろした。
 どこかぶつけた箇所が痛くて起き上がれないのかもしれない。彼に対して良い感情はひとつもないが、さすがに降りていって手を貸すべきだろうか。保健室までなら肩を貸してもいい。
 そう思いながらも足は一歩も動かなかった。金縛りに遭ったかのように手も足も動かず、視線を向けることしかできない。そうして起き上がるのを待っていても彼は一向にぴくりとも動かず、考えないようにしていた悪い可能性に鼓動が速くなる。──いや、きっと、少し気を失っているだけだ。
 どのくらいの時間そうしていたのか定かでないが、時間が止まったようなその状況に割り込むように、ぱたぱたと足早な足音が聞こえた。それはだんだんと近くなり、階段を上がってくる。誰だろう、隠れた方がいいのか、そう考えても足はやはり動かない。
「わ……っ」
 足音は踊り場で途切れた。現れたのはコウジだった。駆け上がってきた勢いで、床に転がっている生徒につまづきそうになったところをかろうじて立て直す。片手に紙を数枚持っているのは、足りないと言っていた楽譜だろう。
 コウジは生徒の顔を見て、それから階段の上へ顔を向けた。立ち尽くしたままのヒロと視線が合う。コウジ、と呼びたかったのに、ひゅうと細い息を吐くことしかできなかった。
「ヒロ……?」
 ヒロのシルエットは逆光になってコウジからは表情がよく見えない。コウジはまた足元の顔を見て、そばに跪いた。顔の前に手を当てている動作がなんのためのものなのか、そのくらいはヒロにもわかる。また鼓動が速くなった。酸素が足りないのか、頭がくらくらする。
 コウジは立ち上がり、ゆっくりと階段を上ってきた。動かないヒロの手をそっと握る。コウジの手は炎のように熱く、そうして初めて、ヒロは自分の手が冷え切っていることに気づいた。
「ヒロがやったの……?」
「あ……」
 ヒロは小さくどもるだけで答えない。その様子がそのまま答えだ。コウジは少しだけ考えるそぶりを見せて、ぽつりと呟いた。
「隠さなきゃ……」
「え……?」
「見つかったら、捕まっちゃう。ヒロは僕の歌でデビューするんだから、こんなことで捕まっちゃうだめだよ」
 コウジの目は真剣だ。顔を寄せて、ヒロの怯える顔を覗き込む。
「どこか遠くへ、見つかっても僕たちがやったってわからないような場所へ……海……いや山かな、森の中に隠そう。大きいバッグに入れて運んで、制服ごと埋めれば……」
 プリズムショーの演出を考える時のように話を続ける。ぶつぶつと呟かれたいくつかの駅の名前、ヒロにはその土地に馴染みがなかったが、隠せる場所のあてがあるのだろう。コウジの言葉は滑らかで、それに従っておけば大丈夫であるように思えた。
「……どうして、そんなに冷静なんだ……」
 からからに渇いた喉からやっと絞り出せた声はひどく掠れていた。コウジはぱちぱちと瞬きをし、ふわりと微笑む。
「だって、ヒロと一緒にいたいから」
 ついさっきひとの呼吸の有無を確かめた手が、安心させるようにヒロの手をきゅっと握った。体温を分け合って、触れ合っている部分の温度がだんだんと近づく。
「コウジ、」
「あ……でもヒロ、寮暮らしだっけ。門限ある?」
「あ、ああ……八時までに帰らないと」
 時刻はもう夕方に近く、これから遠出して力仕事をして戻ってくることを考えると間に合いそうにない。そっか、とコウジは一度俯いて、すぐに顔を上げた。
「じゃあ、うちに泊まりにおいでよ」
「え?」
「うちなら門限はないし。母さんも、どうせ帰って来ないから……」
「そうなのか?」
「仕事が忙しいみたいで」
 コウジは仕方なさそうに笑った。諦めに慣れた顔を見て、ヒロの胸をよぎったのは無視できない共感だった。
「お父さんは?」
 そういえば、家族の話をしたことがなかった。出会ってからずっと一緒にいて、時間はいくらでもあったのに、話題にのぼるのは歌やプリズムショーのことばかりで、プライベートなことを話したことはない。まるで、互いにそれを避けていたかのように。
「……父さんは、もういないんだ」
 ざあ、と背にした屋上へのドアの向こうで強く風が吹いた。ドアががたがたと鳴るのが寂しく響いて、またしんと静まり返る。
「コウジ」
 ヒロは両手を伸ばしてコウジの身体を抱きしめた。背中に回した腕に強く強く力を込める。制服越しにぴったりと密着して、ふたりの間に隙間などないように思えた。
「ヒロ? どうしたの?」
 コウジは抵抗しない。突然のことに戸惑いながら、おずおずと手を動かしてヒロの背に触れる。ヒロはぴくりと震えて、また腕に力を込めた。
「ヒロ……大丈夫だよ。気にしないで」
「……コウジ」
 ──違うんだ、そうじゃないんだ。同じだったんだ、俺もコウジも、父親を失って、母親の愛をうまく受け取れずに、そういう環境の中で、歌やプリズムショーと向き合っていたんだ。
 大声で叫びたい気持ちを今はぐっと堪え、代わりにただ抱きしめて、頬をすり寄せた。そうしているとすぐ近くに死体が転がっていることなど忘れそうになる。
 頬の温度が同じになった頃になってやっと、ヒロはコウジから身体を離した。伝えるのは今じゃない。まずは厄介ごとを始末するのが先だ。

 ヒロは外泊届を提出しに一旦寮へ戻った。コウジは死体をなるべく小さく折り畳み、屋上の花壇の陰に隠して見張る。もともと人の出入りが少ない場所だが、誰も来ないとは限らない。
 花壇の縁に腰掛けて、風の流れる音を聞く。死体は視界に入らない。ヒロに預けていた楽譜と、後から持ってきた楽譜を並べ、整理した。確認のため楽譜の頭から小さく歌う。ヒロが歌うこと想定して作った歌だから、これは仮歌だ。
 夕暮れの薔薇園にコウジの歌がささやかに響き渡る。楽譜を辿り、さっきは足りなかった部分を埋めて最後まで歌い切れば、自然と笑みがこぼれた。早くヒロに歌ってほしい。
 何度か歌を繰り返したところでヒロが屋上へ戻ってきた。運動部が遠征の時に使うような大きなスポーツバッグと、それとは別にトートバッグを肩に下げている。走ってきたのか少し息が上がっていた。大きな瞳に西陽が射してきらりと光る。
「コウジ」
 ヒロはコウジの姿を認めてほっとしたように笑顔を見せた。花壇へ駆け寄って、持ってきた荷物を地面に置く。
「たぶん、押し込めれば入ると思う。タオルを入れてきたからこれで形を整えよう」
「そっちのバッグは?」
「私服を持ってきた。遅い時間に制服で遠くを出歩いたら目立つだろ」
 コウジはヒロの対応に満足気に頷いた。華京院の制服はただでさえ目立つし、学園自体の知名度も高い。余計な疑いをかけられないようにするためには適切な判断だ。
 スポーツバッグの口を広げ、ふたりで死体を抱えて中に詰め込んだ。そのまま持ち上げると頭や爪先のあたる部分が不自然な形になるから、隙間にタオルを入れて違和感のないように整える。コウジは死体の顔の前にタオルを挟んだ。息苦しそうだが、死んでいるのだから問題ないだろう。バッグは当たり前だが人間を収納するようにはできておらず、強引に押し込んでなんとかチャックを閉めた。
「よい、しょっ」
 バッグを肩にかける。人間ひとり分の重みが一箇所にのしかかったが、引きずるほど重くは感じない。
「コウジ、重くないか? 俺が持とうか」
「大丈夫だよ。途中で交代しながら行こうか」
「ああ」
 太陽はもうほとんど沈んで、空の上半分は藍から青のグラデーションに覆われている。コウジの楽譜はヒロのトートバッグに入れ、ふたりは屋上を後にする。ばたん、ドアの閉まる衝撃で、埃がぶわりと舞った。

 まず向かったのはコウジの家だ。ヒロは初めて訪れたが、ヒロの生まれ育ったアパートとはかけ離れていて、どちらかというと法月家の印象に近い。
「さあ、あがって」
「お邪魔します」
 コウジが出したスリッパを履いて家に上がる。家の中はきれいで、広くて、もの寂しくて、コウジの育ちに納得した。
 互いに私服に着替え、変装のつもりで帽子を被る。懐中電灯と、ベランダにあったスコップをふたつ荷物に入れて、すぐに家を出た。会話は必要なもの以外、ほとんどなかった。
 足早に駅へ向かうと、ホームも電車も帰宅する社会人で混み合っていた。バッグを庇うように向かい合って立つと自然と目線が合って、不思議な状況に心が浮き立つ。学園の中では一緒にいても、こうして私服で電車に乗るのは初めてで、まるで友達と遊びに出かけるかのようだった。
 電車を乗り換えて都心から離れると、だんだんと人が減る。座席も空いて、並んで座って足元にバッグを置くと、なんとなく互いに顔を見て小さく笑った。誰にも秘密の、夜の外出に、高揚しない方が無理なことだった。
 コウジの先導する道はひとけもなく、街灯も少ない。決して山奥に来たわけではないのに、辿り着いた場所は一帯が雑木林のようになっていた。暗い色の土の上に背の高い木が立ち並び、頭上を見上げても生い茂った葉に隠されて空は見えない。互いの姿も、動く気配でシルエットがわかる程度だった。
「もう少し奥にしよう。足元に気をつけて」
「わかった」
 コウジは荷物から懐中電灯を出して地面を照らす。ここへ来るまでの道にあった街灯の明かりも、奥へ進むにつれて見えなくなった。見えないということは向こう側からも見えないはずだ。しばらく歩いて場所を定め、バッグを下ろす。
 スコップで人を埋められるほどの大きさの穴を掘るのは骨が折れた。ひたすらに土を掘り返し、もういいだろうと思ってみてもいざ死体の大きさと見比べると心許ない。じわりと汗をかき、夜風に晒されて身体が冷えた。
 時間がかかるな、とヒロは思った。もちろん一瞬で終わるはずがないのはわかっていたが、想像したよりずっと地道な作業で、このまま朝になっても終わらないような気さえしてくる。終わらなかったらどうしよう、明日も学校へ行かなければいけないし、プリズムショーのレッスンもしなければいけない。でも、この死体が見つかってしまったら、プリズムショーどころではなくなってしまう可能性がある。
 顔を上げて、コウジを見る。コウジはスコップを持ったままの手で、汗で肌にはりついた野暮ったい髪をかき上げた。それからヒロの視線に気づいて小首を傾げる。
「疲れた?」
 新しい歌を持ってきて、どうかな? と感想を求める時と同じ表情をしていた。
「……いや、大丈夫。早く終わらせよう」
 ヒロも額を拭い、また地面にスコップを突き立てる。
 時間がかかるな、とコウジは思った。時間をかけるにつれてコウジもヒロも疲労が溜まっているのは明らかだ。普段のトレーニングで鍛えているのはプリズムショーをするための身体づくりであって、人間を埋めるための筋力ではない。それでも、コウジにとってこの作業はまったく苦ではなかった。
 ヒロはどんなふうにしてこの生徒を殺したのだろう。いや、どうして死んだのかは知らないから、ただの事故だったのかもしれない。そもそもこの生徒がかつてコウジを虐めていたことなどヒロは知らないだろうし、不幸な偶然だったと考える方が自然だ。あの時屋上へ戻るのがあと五分でも早ければその現場に居合わせられたのかもしれないと思うと、そのことだけがコウジの後悔だった。その瞬間を見届けることができていたのなら、この秘密の共有はもっと強かったはずなのに。

 暗い地面にぽっかりと空いた穴に死体を下ろし、土を被せて隠す。そもそもが暗くて元の状態がどんなものだったかわからないから完璧な正解ではないだろうが、それは仕方がないと割り切った。
「よかった、補導されずに済みそうだよ」
 時間を確認したコウジが安心したように言った。中学生が出歩いていい時間なら、帰りの電車もじゅうぶんにあるだろう。
「俺のバッグだし、俺が持つよ」
 ヒロは死体のなくなったバッグを肩にかけた。中には詰めていたタオルとスコップだけが入っていて、さっきまでと比べたら重さなどないに等しい。コウジが懐中電灯で地面を照らしながら来た道を戻り雑木林を出ると、急に視界が広がった。夜なのに白く眩しく見える。
 帰りに乗るのは遅い時間の上り電車で、来る時よりも人はまばらだ。軽くなったはずのバッグを、ヒロは今になって重く感じるようになった。来る時はむしろ重さなど気にならなかったのに、日常の場に戻るにつれて、荷物は重く、呼吸は息苦しくなってゆく。汗の滲む手を堪えるように握り締めた。
「さすがに疲れたね。帰ったらシャワー浴びて、早めに寝よう」
 コウジはそう言うけれど、ヒロには普段通りに見えた。表情も、口調も、佇まいも。ついさっき死体を埋めた緊張や疲労は微塵も感じられない。その様子を見ていると気を張っている方が間違っているような気がしてくる。
 一緒にいれば、一緒にいつもの生活に戻れる。眠って起きて、学校へ行けばいつも通り授業とプリズムショーの練習が待っている。なにも心配することはない、そう思えた。

 コウジの家に戻ったのは普段ならば出歩かないような時間だったが、電気はついていなかった。代わりに一言、今夜は帰らないという連絡がコウジの元に届く。コウジも慣れたものでいつもの返事を送った。わかったよ、心配しないで、お疲れさま。
 全身から土の匂いがするような気がして、コウジはすぐに浴槽に湯を張った。ヒロを泊めるのは初めてで、ふたりで一緒に入浴するのも初めてだ。湯船に浸かりながら、身体を洗うヒロを見る。ヒロの身体はヒロのプリズムショーそのものだった。しなやかで、美しい。
「……どうかした?」
 泡まみれのヒロが、コウジの視線に気づいて首を傾げる。コウジはなんでもないよと笑った。風呂から上がればもうふたりの身体からはボディソープとシャンプーの匂いしかせず、ヒロの身体に土の匂いが残らなくてよかった、と思った。

 客用の布団を敷こうとしたコウジを、一緒に寝ればいいだろ、とヒロが止めた。
「コウジが嫌ならやめるけど……」
「嫌じゃないよ」
 被せるように否定すると、ヒロは嬉しそうに微笑んだ。結局枕だけを出してきてコウジの枕の隣に並べる。ベッドはちょうど枕をふたつ並べたのと同じくらいの幅で、ふたりで寝ても狭くて落ちるというようなことはなさそうだった。
「おやすみ」
「……おやすみ」
 この挨拶を交わすのも初めてでむずがゆい。照明を消しても隣にはヒロの気配がある。こんなこと、滅多にある機会ではないのだから、もっとたくさん話をできたはずなのに、ゆるりと落ちた瞼に世界は塗り潰されて、そのまま引きずり込まれるように意識は落ちていった。
 ──その意識が、ふいに浮上する。暗くて時刻もわからない。もぞもぞと寝返りを打つと目の前にヒロの寝顔があって驚いた。そうだ、昨日は……いろいろなことがあって、そうしてヒロと一緒に眠ったのだ。
 驚いた拍子にまた寝返りを打って、ヒロに背を向ける。だんだんと頭の中がはっきりするにつれて、コウジは下半身の違和感に気づいた。どうしてこんな時に、と自分の身体を恨んでも、それは治まってはくれずにコウジの鼓動をいたずらに速くする。気づかなかったことにしてもう一度眠ってしまえないかと、ぎゅっと目を瞑った。
「コウジ、起きてる?」
 眠りに向かうことを咎めるように、背後からヒロの声が囁いた。
 ぎょっとして振り返ると、暗闇の中、ヒロの目がコウジを見ていた。普段の溌剌とした印象とは異なり、少し細められた瞳はとろりと揺蕩うようで、思わず息を飲む。
「眠れなくて……」
「俺も」
 コウジの言い訳じみた声音に、ふふ、とヒロが笑った。つられてコウジの口元も緩む。他に誰もいない、なんの音もしない空間、ふたりきりで取り残されたような気がしても、怖くも寂しくもなかった。
「なあ、コウジ」
「なっ……!?」
 ベッドの中でヒロの手が明確な意志をもって動き、コウジの股間に触れた。予想できるはずのない行動に対してコウジは無防備で、ぎょっとすることしかできない。
「やっぱり」
「ひ、ヒロ、なにを、」
 慌てて引き剥がそうとヒロの手に触れると、ヒロはにいといたずらっぽく笑んだ。これは良くないと思っても目が離せない。
「コウジ……俺のも、触って」
 ヒロの手はコウジの手を絡め取り、誘導する。頭が沸騰しそうにくらくらした。手も、触れた場所も熱く、間近で吐く息も熱く、全身が溶けてゆく思いがする。
「ヒロ、も……硬い……」
 ふたりきりの世界で、それでも誰にも聞こえないくらいの、情けないほどに掠れた小さな声だった。
 ヒロの手がするりと動いて、コウジの下着の中に伸びる。プリズムショーで指先まで完璧に美しく動き、土を掘り人間を埋めたすべらかな手が。
「だ、めだよ……!」
「どうして?」
 ヒロは手に力を込めた。堪えられない刺激に、うう、と声が漏れる。
「俺たちは、もうとっくに、やっちゃいけないことをした」
「あ……」
 亜麻色の瞳が雄弁に伝えるのは強い興奮だ。そしてそれは、同じだけコウジの中にも灯ったものだった。
 コウジはごくりと生唾を飲み込んで、ヒロの下着の中に手を差し入れた。

 互いの手の中に吐き出して片づけると、熱が引いて頭がクリアになる。今までは聞こえていなかった、規則的に鳴っている掛け時計の秒針の音に気づいた。カーテンに覆われた窓の向こうに光が射している。夜が明け、いつもの生活が迎えに来るのだ。
「……そういえば、コウジが持ってた歌……」
 ヒロがぽつりと言う。コウジが顔を向けると、ヒロは閉じていた目を開いた。
「え?」
「楽譜、足りなないって言ってた分、あったのか?」
「うん、教室にあったよ」
「よかった」
 ヒロが本当に嬉しそうに言うから、そのさまがコウジの胸を満たす。
「放課後、聴かせてくれ」
「……うん」
 一揃えの楽譜はコウジの鞄の中で、奏でられることを待っている。ただひとりに歌われるための歌。そのひとのゆく道を照らさんと作った歌。なにがあっても、その道を阻ませはしない。
「ヒロ、歌って。僕の歌を」

コウジとヒロの境遇がまったく同じ、とはもちろん思っていませんが、中等部のふたりは自他の境界が曖昧な子供であるように感じています。

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