投票に行こう!

有権者は選挙に行きましょう

 店の定休日は、いつもより少し遅く起きる。
 遅くといってもその差は一、二時間だ。寝汚い幼馴染と違って昼を過ぎても起きないなどということはない。目覚ましをかけずとも自然に目が覚めるから、顔を洗いコーヒーを飲んで、ラフな格好でスニーカーを履いた。ベランダの向こうに見えていた空は突き抜けるような青、トレーニングの気分を上げてくれるだろう。
 ランニングのコースを考えながら玄関に置いていた鍵を取り、ドアを開けたところで、虎次郎は突然出鼻を挫かれた。
「うおっ!?」
「ぴったりだな」
 ドアの外に薫がいた。薄墨色の着物にサングラスをかけ、大きな傘を持ち、出で立ちだけ見れば不審だが、虎次郎もご近所さんもこれが桜屋敷薫の夏の基本装備だと知っている。
 思わずのけぞった虎次郎をよそに、薫は満足げに深く頷いた。自分の到着と虎次郎がドアを開けたタイミングの話をしているのだろう。若干の恐怖を覚えなくもないが、どうせ薫の女が働いた結果であることはわかりきっており、そこへ言及しても虎次郎に得はないのでやめておく。
 薫は虎次郎の頭から爪先までをじとりと検分し、眉をひそめた。
「なぜ手ぶらなんだ」
「ランニング行くからだよ。悪いかよ」
「悪い」
 にべもない肯定である。
「投票所入場整理券を持ってこい。どうせまだ封を切ってもいないんだろう」
 言いながら薫は着物の袂から薄い封筒を取り出した。大きく『選挙』『投票所入場整理券』の文字が書かれているその封筒には、虎次郎も見覚えがある。少し前に郵便受けから回収し、ダイニングテーブルの上に置き、薫の言うとおり開封せずにそのままだ。
「投票日は次の日曜だ。当日はお前、店があるだろう」
「まあ、そうだな」
「だから期日前投票へ行く。わかったら早くしろ」
「いッ……わかったからちょっと待ってろ!」
 薫は傘の先で虎次郎の脛をつつきながら部屋の中へと追いやった。出てきたばかりの玄関へ逆戻りし、背後でアパートの重たいドアがバタンと閉じる。
 目当ての封筒は記憶通り、テーブルの上で出番を待っていた。はさみを入れてから外へ出ると、薫はフンと鼻を鳴らし、さっさと歩き出した。

 小学校の体育館は、懐かしいにおいがした。
 通っていたころはめいっぱいに駆け回っていた空間も、今ではひどく小さく感じる。ステージは低く見えるし、バスケットゴールも手が届きそうに近い。虎次郎は遠くから力いっぱいのロングシュートを投げるのが得意だった。一方の薫はボールの逃げた先にいつの間にかいて、拾ったかと思えば他の選手のあいだを縫って一気にゴール下まで行き、真上に放り投げるようなシュートを打っていた。
 得点したときの悪ガキのような笑顔を思い出し、目の前で草履の足をしずしずと進める姿とのギャップに小さく笑う。
「……何だ」
「いや? 懐かしいよな、ここ」
「言っておくがお前も大概だからな。あのころのほうがまだ可愛げがあった」
「今も可愛いってシニョリーナは言ってくれるけどなぁ」
「そうか。感性が独特なんだろう」
 投票所は人が多く、その中には顔見知りも少なくないから、言い合いもなんとなく小声になる。
 スタッフに誘導されたルートで記入して投票箱に入れると、薫が朝から待ち構えてまで連れ込んだ用事はあっという間に完了した。
「なあ、誰に入れた?」
「投票の秘密だ」
 昔馴染みの顔が脳裏に浮かぶ。薫も同じだろう。だがそれはそれ、これはこれ。スケートと政治は言うまでもなく別物である。
 外へ出ると太陽はますます高い位置へのぼっていた。薫は傘をさし、ひとりで日陰を満喫しながらちらりと虎次郎を見る。
「朝飯はトマトとモッツァレラのチャバタがいい」
「……作れってか?」
「そう言っている」
 いつも通りの涼しい声音でも、サングラスの下で目を細めているのだろうとわかる。そのくらいの付き合いはあった。
「選挙のあとは外食と決まっているからな」
「それ、外食になるのはお前だけだろ」
 さて、店で育てているバジルは旬を迎えて青々と繁っていて、いくら摘んでも困らない。

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