付き合ってないバレンタイン
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なんの取り決めもなく最初から、虎次郎が料理人になると決めるよりも前から、試食係のポジションは薫のものだった。
気まぐれで作った弁当から店のレギュラーメニューまで、薫の舌の知らないもののほうが少ない。虎次郎の店が軌道に乗ってからはなおさら、客に出す前にまず薫がジャッジすることが当たり前になっていた。
だから薫の食べるものは、季節をいささか先取りしている。
梅雨のころに夏のメニューを。ハロウィンの夜にクリスマスディナーを。
「……あと、これも食べてみてくんねえ?」
一月の半ば、閉店間際にやってきた薫へアマトリチャーナを出したあと、虎次郎がそう言ってカウンターへそっと置いた皿には、まるいガトーショコラが乗っていた。
この店のドルチェの中に、チョコレートをメインにしたものはない。だからすぐにバレンタイン用のメニューだとわかった。表面には雪のように粉糖がかかり、バニラアイスのほかにエディブルフラワーまで添えられている気合の入りようである。誰がどう見ても特別な日のための特別なドルチェと感じるだろう。
「作ったのか」
「そんな難しいレシピでもねえよ」
「ふうん……」
目の前に出されたものを食べない理由はなく、フォークを入れてひとくち食べる。チョコレートは見た目よりも濃厚で、けれど甘すぎないからバニラアイスとよく合った。
もちろんエスプレッソとも、ちょうど飲んでいたデザートワインとも。
「どうだ?」
「いいんじゃないか?」
「そっか」
虎次郎はあからさまにほっとして表情を緩めた。薫は口に合わないときは遠慮なく言うから、ダメ出しがなくてほっとしたらしい。
帰宅後カーラに確認し、ガトーショコラを作るにはメレンゲが必要だと知った。料理人にとってどうなのかは知らないが、薫は卵を卵黄と卵白に分け卵白をミキサーで泡立てるという、最初の卵を黄色と白に分ける時点で面倒なことだと思った。
バレンタインドルチェの試食はそれ以降毎年恒例になった。
年中試食しているからこれだけが特別ということはなく、薫のやることといえば虎次郎が出してくるほかのメニューと同じく、食べて率直な感想を言うだけである。
出されるドルチェは毎年違った。ウイスキーボンボン、マンディアン、オランジェット、ザッハトルテ。職業柄バレンタインの時期は付き合いでチョコレートをもらうことも多いが、かといってわざわざ出されたものを拒否するほどではなく、毎回出されるがまま完食した。虎次郎と違って、薫は甘いものもわりと好んで食べる。
「そういえばね先生、先日虎次郎くんとこでディナーをいただいたんですよ。早めのバレンタインの」
夜に開講している大人を対象とした書道教室でそう声をかけてきたのは、昔から顔見知りの老婦人だった。薫のことも虎次郎のこともクソガキだったころから知っているから、世間話としてときおり幼馴染の話題を持ち出すのである。
今は教室の先生と生徒だから、体裁を重んじて先生と呼び敬語を使ってくれるのだが、かえって恥ずかしくもあった。
「そうですか。チョコレートテリーヌが美味しかったでしょう」
「え? いいえ、デザートはティラミスでしたよ。いちごが添えられてね、可愛らしくて」
「ああ……そうだったんですね。それはよかった」
よかったのは満足げなご婦人だけである。薫はなにもよくはない。
あの野郎。
「やる」
「は?」
二月十四日の夜、閉店時刻を狙って店へ行くと案の定最後の客が店から出てきたところだった。イベント当日に盛況なのはなによりだ。薫の目的はバレンタインディナーではないので、入店早々持ってきた紙袋を虎次郎へ押しつけた。単なる運搬用だからとすぐに処分するのはもったいなく感じてしまう、分厚い紙でできた紙袋で、持ち手はなんとリボンである。
虎次郎はそれを反射的に受け取り、すぐに中身を察した。
「なんだよ、もらいものが余ったか? さすがセンセー、おモテになることで」
「違う」
「…………拾いもの……」
「違う。ひとをなんだと思ってるんだ」
訝しげな声音で、まったくもってひどい言い草である。虎次郎の中で薫は帰り道の小石を拾っていたころから変わっていないらしい。顔を出せばいつだって、酒や料理を与えてくるくせに。
「これは俺が買ったんだ」
「はぁ? なんで」
「お前にやるために」
「……なんで、」
虎次郎は垂れ目を丸くして、いよいよ困惑した表情になった。
こんな顔が見れたなら、わざわざ多忙な仕事の合間、百貨店まで買いに出た甲斐があったというものである。やられっぱなしは性に合わない。拾った小石を虎次郎のランドセルに投げつけていたころからずっと。
薫は機嫌よく目を細めた。こんなに楽しいバレンタインは初めてだ。
「さて、なんでだと思う?」
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