幸せになれない

ノンセクの薫

 ありがとう、と薫が言った。
 薫が虎次郎へこんな聞き違えようのない礼を言うなんていつ以来だろうか。
 カウンターの照明に照らされる、信じられないほど穏やかな表情は、けれどどこか諦めにも似ていた。普段はきつくつり上がっている眉はゆるみ、射抜くようなまなざしはその力を抑えてただじっと虎次郎を見ている。
 お前が好きだと、ずっと昔から抱えていた感情が虎次郎の口からぽろりとこぼれ落ちたのは、ほとんど勢いであった。伝えるつもりがなかったはずの想いが声になって出てきてしまったことに自分でも驚いて、直前までの話題などもう忘れてしまった。薫もさすがに虚を突かれたのか、言葉を失ったままひとえ瞼をぱちりとまたたかせ、そうして、ありがとう、と言ったのだ。
 うっかり告白してしまったことへの驚きも、薫の反応への驚愕に比べたら微々たるものだった。気色悪がられるか、怒鳴りつけられるか、呆れ果てられるか、もし伝えたら薫はどんな顔をするだろうと、虎次郎が数えきれないほどシミュレートしていたどの反応とも現実は違っていた。
 好きだと伝えたら、ありがとうと返ってきた。
 それは、つまり、そういうことだ。三十路も過ぎた幼馴染を相手に中学生のようなやり取りをしていることに感動すら覚え始める。
 薫は、はぁ……と肺の中の空気をすべてなくすように深く息を吐いて、その最後に吐き切りながら、俺もだ、と言った。
「俺もお前が好きだ、虎次郎」
 やはりそういうことだ。こんなにもはっきりと明言されるなんて、これは現実ではなく都合のいい夢なのかもしれない。
「じゃあ、」
 薫がやっぱりナシなどと言い出す前に言質を取ろうとカウンター越しに前のめりになる。薫は座ったまま動かないから虎次郎が寄ったぶんだけ顔が近づいて、いつだってまっすぐな薫の目がすぐそばに見えた。
「でも、駄目だ」
 しかし薫は虎次郎の言葉を遮って、否定した。
「応えられない」
 低い声でそう静かに言って目を閉じる。満月の瞳が、瞼のうらに隠れる。
「……なんでだよ」
 虎次郎は途方に暮れてしまった。虎次郎の告白が悪ふざけなどではないことは薫にたしかに伝わって、薫はありがとうと言ったのに、その先へ進むことは拒絶されている。
 薫がなにを考えているのかわからない。突拍子のないことをする男ではあるが、虎次郎に対してなにを考えているのかわからなかったことが、これまでの人生の中にあっただろうか。
「お前、さっき俺のこと好きだって言っただろ」
「ああ」
「なら、」
「駄目だ」
 薫の満月がまた覗いて虎次郎を見た。
 表情をくしゃりと歪め、うすい唇の隙間、喉奥から絞り出すような声が吐き出される。
「駄目だ、俺は……お前に応えられない」
 好き、と、応えられない、が、虎次郎の中では結びつかない。虎次郎が好きと言って、薫も好きと返して、ならばもう、迷うことなどなにもないはずなのに。
「薫」
 手を伸ばして、薫の頬に触れようとした。身長のわりに小さな顔に、同じ男とは思えないほどすべらかな肌に触れて、その温度を確かめたかった。そこに薫の心があると思ったから。
 しかし手が届く前に、薫はそっと顔を背けた。拒絶の意図が伝わって、横顔の前で虎次郎の手が止まる。
 薫はちらりと虎次郎の指を見て目を伏せた。桜色の睫毛が明かりを浴びてちらちらと光っている。すうっと息を吸い、一拍置いて、聞き逃してしまいそうな小さな声で言った。
「性欲がないんだ」
「……は?」
「文字通りの意味だ。好きでも、キスやそれ以上のことをしたいとは思わない。……したくない」
 顔は背けたまま、流し目だけで虎次郎を見上げる。視線は虎次郎が所在なくさまよわせたままの手を通り過ぎ、まっすぐに顔まで射抜いた。
「お前が望んでいるのはそういう付き合いではないだろう」
 なにもかも見透かすような瞳と声だった。もしかしたら薫の眼鏡のうすいレンズでカーラが働いていて、虎次郎が胸のうちに隠し持っているものを全部薫に教えているのではないかと勘繰ってしまうほど。
 色恋沙汰は、得意なほうだと思っていた。少なくとも薫に比べたら経験があるし、そういうことが好きだ。だからたいていの状況にはうまく、そつなく対応できる自負があった。
 けれど今、想いが通じたはずの相手の言うことに、返せる言葉がなにもない。息が詰まったように声が出てこず、ただただ心臓がどくどくと鳴ってなにか言え、機を逃すなと急かしてくる。その音すら薫には筒抜けなのかもしれないと思う。
 虎次郎の早鐘に相反して、薫は淡々と、裁判官のように言った。
「だから駄目だ。俺は、お前と付き合えない」

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