絶対にうにクリームパスタを食べたい薫
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ゆっくりと水底から浮上するように意識が働き始める。瞼の裏を焼く明るさにもう日は昇りきっているらしいと理解しながら目を開くと、カーテン越しに届く陽光の眩しさと、次に無精髭で裸のゴリラの緩みきった顔が見えた。
「あ、起きた? おはよ」
でろでろの声で挨拶された。明らかに薫が起きる前からこちらを見ていたことがわかる態度に眉をひそめ、生まれつききつい目つきを更に悪くする。虎次郎の起床時刻を計測して分単位で鑑賞料金を取ってやろうか。
そんなことを考えながら薫は腕を伸ばし、虎次郎の首へ回してみどりの襟足を掴んだ。そのまま引き寄せれば虎次郎は抵抗もせず、頭が薫の首筋へ落ちてくる。
重い。しかしこの重さを我慢してでも薫には言うべきことがある。すぐそばに来た耳元に唇を寄せ、薄く開いて声を吹き込んだ。
「……虎次郎」
「ん?」
ん? の一文字ですら色めいたことへの期待を隠せていないことに呆れ返ってしまう。この色ボケがと罵倒してやりたかったが、今の薫にはそれよりも優先順位の高い伝えるべきことがあった。
「…………雲丹クリームパスタ……」
「……は?」
「食いたい……」
「腹減ってんのか? 飯にするか」
「……雲丹クリームパスタ」
「何なんだよさっきから」
虎次郎は特に動こうとしないので、首元からくぐもった反論が聞こえてくるだけだった。怒っているというよりは突然のオーダーに困惑している声音だ。
だが薫にとっては切実な話なのだ。目が覚めるか覚めないか、部屋の様子を認識するより先に頭の中に雲丹クリームパスタが思い浮かんでいた。浮かんでしまえばもう、それを食べるまで気が済まないというものだ。
「雲丹クリームパスタが食いたい。他のものは要らない」
「雲丹なんかねえよ。また今度な」
「買ってくればいいだろう」
「……買いに行けって?」
「はぁ……全身が痛い……喉も痛い……雲丹クリームパスタを食べなければこのまま死ぬかもしれん」
「死なねえよ」
「俺は二度寝する。起きたらきっと極上の雲丹クリームパスタが待っているはず……」
「おい、薫」
「頂上にはいくらも乗っているに違いない……」
「注文多いな!」
まだ眠いのは本当だった。そもそも昨日の夜までスケジュールをかなり詰め込んで仕事をこなしていたのだ。やっと確保した休日を少しくらい贅沢に過ごしたとて罰は当たるまい。
脱力した薫の腕がシーツに落ちる。真横からこの横暴眼鏡とかなんとかぶつくさと言われているのは聞こえてきたが、瞼を閉じてしまったのでその表情までは見えなかった。
次に目が覚めたとき、二時間前から薫の頭の中に居座っていたものがダイニングテーブルにあった。
「言ってみるものだ」
「ちっとは感謝しろよな」
チェスナットブラウンのテーブルにネイビーのプレースマット。大きな白い皿の中央に上品な小山を築いているパスタは雲丹のオレンジに彩られて、その頂上には薫がねだった通り、いくらが添えられていた。
皿の右奥には磨かれたワイングラスが置かれ、冷えた白ワインが注がれるのを待っている。
「やればできるじゃないか」
「幸か不幸か市場が開いてたからな。お前さすがにこれは出資しろよ」
「フン、やかましいゴリラめ。……カーラ」
『南城虎次郎の口座に五千円を送金しました』
「喜べ、釣りは駄賃だ」
「ありがとな!?」
雲丹の仕入れ値だけを見れば釣りが来るが、店のオーナーシェフが仕入れから調理、サーブまで数時間を費やした人件費を含めたら明らかに赤字である。まがりなりにも同じ自営業かつ雇用主である薫がそれをわからないはずがない。
シェフ手ずからワインを注げば薫はすぐにそれを口に含む。寝起きに飲むものではないが今日は休日でここは家だ、おいしく食べてくれるならもうなんだって構わない。
ワイングラスを置いた薫の手が流れるような動作でフォークを持ち上げ、パスタをくるくると巻きつけた。雲丹のかたまりといくらも器用にすくって、こういうときにしか見せない大口を開けて舌の上へ招き入れる。
「虎次郎」
「なんだよ」
「美味い」
「……そりゃよかった」
悲しいかな、この三文字だけで虎次郎にとっては今度こそ釣りが来てしまうのだった。
「おい、雲丹まだ残ってるならあとで和牛の握りに乗せろ」
「俺の専門はイタリアンだっつってんだろ!」
「何だ、できないのか」
「……できるけど」
「確か頂き物の獺祭の磨きが……」
「あーーもう、肉買ってくるところからだからすぐにはできねえぞ!?」
「やむを得まい。頼んだぞ南城シェフ」
「お前なぁ……和牛代も送金しとけよ!」
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