クレイジーあの世ロックで逢いましょう

『人工知能は幼馴染の夢を見せるか?』の続き。明るい死後

 嗅ぎ慣れた鉱山のにおいがする。
 巻き上がる土埃。木々のみどりの湿った香り。フェンスの錆びた鉄と、すこし熱っぽい空気。あの熱狂からはもうずいぶんと長いこと遠ざかっていたのに、深く息を吸い込めばこの場所の空気が鼓動を強くたしかに高鳴らせるのがわかった。心臓がどくどくと絶えなく働き、全身に血と酸素が巡るのがわかる、そんな感覚。
──鼓動が。心臓が。血液が。
「……んなバカな」
 虎次郎は思わず声を漏らすと、鼓動を生んでいるであろう胸元に手のひらを当てた。
 そう、この姿すらも「そんなバカな」である。若いころにせっせと鍛え育て上げた自慢の筋肉もさすがに衰えた──はずが、いま虎次郎の手のひらの下には隆起した逞しい胸筋があった。裸の胸に脱げかけのジャケット。白いボトム。この場所にいるときのいつもの格好が、思い出よりもずっと鮮明に、立ち尽くして己を見下ろす虎次郎の視界に映り込む。
 心臓が動いているのかどうかは分厚いグローブに阻まれてわからなかったが、止まっていてくれないと困る。
 薫が逝って、八年が経っていた。人生でもっとも張り合いのない八年間に虎次郎も穏やかに幕を降したところなのだ。長かったようにもあっという間だったようにも感じるが、ようやく、という気持ちはあった。
 誰が見たって大往生だったと言うだろう。虎次郎だってもういまさらなんの未練もない。だから手のひらの下の心臓は止まっていて、血は巡らず、目も閉じているべきなのだ。
 それがどうして若い時分の姿で、違和感を覚えるほど真っ青な空の下、明るい昼間のクレイジーロックに突っ立っているのか。
 記憶の中のクレイジーロックはどこを向いてもスケーターの姿があって、あちこちから歓声が湧いていた。それが今は虎次郎ひとりで誰の声も聞こえない。どうしたものかとあたりを見回すと、ちょうど真後ろの遠くのほう、あまりに見慣れた背中が見えた。
「…………薫」
 思わず落とした小さな声もふたりきりの世界では届いたらしい。背中がゆっくりと振り返る。
 薫は切れ長の瞳をめいっぱい見開いて虎次郎を見た。蜂蜜のような、明るい月のような、琥珀のような薫の瞳。薄い唇が震えながら開くのが見えた。
「……ああ……!」
 風の音も木々の小さなざわめきすらもかき消して、薫がこぼした声だけがはっきりと耳に届く。
 ああなんてなつかしい声だろう、忘れたことなどいっときもない、たまにこっそりカーラに囁かせていたあの声。
 どういう仕組みかは知らないが、薫もかつてSで無茶をやっていたころ、美しい桜色の髪をなびかせていたころの姿で、地面を蹴って虎次郎のほうへ走ってくる。
「薫!」
 そんなに速く駆けてきては真正面からぶつかってしまうだろうがそんなものは抱きとめてやればいいことだ。幸い今の虎次郎は豊かな体躯を得ているのだし、薫ひとり受け止めるくらいは造作もない。
 そう思って足の裏に力をこめた虎次郎の目の前で、しかし薫はぴたりと立ち止まった。これが車だったなら急ブレーキの鋭い悲鳴が響いていたことだろう。その代わりとでもいうかのように薫の喉から悲鳴にも似た痛切な声がこぼれ落ちる。
「カーラ……!」
「おいっ」
 薫は虎次郎の顔には見向きもせずに虎次郎の左手首を掴むと、そこにはめられたピンク色のバングルを指先でたしかめた。これもまたどういう仕組みかは知らないが、虎次郎もあのころの、薫が生きていたころの容姿なのに、なぜかその手首にはバングルが──カーラがいた。虎次郎よりも先にその女の名を呼ばれてさすがに物申したくなったが、薫の瞳にうすらと水の膜が張っているのが見えて口をつぐんでしまった。
 薫の指の下で、バングルがピッと短く鳴る。
『パーソナルデータ照合。お久しぶりです、マスター』
「ああ。カーラも息災でなによりだ」
「機械に息災って……痛え!」
 薫はバングルを見つめたまま踵で的確に虎次郎の足の甲を踏みつけた。慣れ切った距離感だ。
「このゴリラにひどいことをされなかったか?」
『問題ありません。コジロウとたくさん、あなたの話をしました』
「あっ、おい」
「そうか。俺のいないところで噂話をするなんて悪い子だ」
 言葉とは裏腹に薫の声はひどく穏やかだった。虎次郎は溜息をひとつ、それから薫の手を離させて、己の手首に触れる。
「返すぜ。いつか返したかったから、会えてよかった」
 バングルを外して渡すと薫はそれを自分の左手首にはめた。あるべきところへ戻ったバングルの姿は、虎次郎の手首にいるよりずっとしっくりきた。この八年間でカーラのいる生活にもだいぶ馴染みはしたが、薫がカーラを生み出してからずっと寄り添っていた長い時間には到底かなわない。
 視線を落とすといつの間にか足元にはふたつのスケートボードがあった。まるで魔法だが、そもそもふたりとも死んだはずなのにこうして再会している時点で奇跡のようなことが起きているのだ。魔法のひとつやふたつ働いたってなにも不思議ではなかった。
 薫は片膝をついてスケートの表面を撫でた。その手のひらに応えるように、黒いカーボンのスケートにピンクの光が走る。なにも知らなければこれも魔法のように見えることだろう。
「カーラ、滑ろう。こいつをこてんぱんに負かしてやろう」
『OKマスター。あなたの死後のジョーのデータをインストールしました。計算を最適化します』
「いいぞ、さすがだ」
「おい!」
「なんだ、俺たちに負けるのが怖いのか?」
「あぁ? 上等だ。俺だってお前がいないあいだのカーラのこと知ってるんだからな」
 虎次郎が得意げに言うのを聞いて薫はぱちぱちと瞬きをする。虎次郎はなんだかんだ言ってカーラをないがしろにはしないだろうと考えてはいたが、予想よりもずっと仲良くやっていたらしい。
 だがそのカーラも今や薫のもとへ帰ってきたのだ。
 唇の片端をにやりと上向け、左足をボードに置く。そのまま足を前後に揺らすと地面の凹凸が足裏から伝わって、久しく感じていなかった高揚を呼んだ。
「ならばビーフだ。賭けるものは、そうだな──俺が死んだあとのお前の泣き言を聞く権利」
「はぁ!? なら俺が勝ったらお前がひとりでワイン飲んでたときのデータ見せろよ」
「カーラ」
『該当データにパスコードを設定しました』
「おいカーラ!」
「うるさいぞ泣き言ゴリラ。カーラに無礼な口を利くな。さあカーラ、カウントだ」
『OKマスター』
 その電子音声を合図にふたり揃って愛用のスケートを構える。
 ビーフの始まる緊張と快感が瞬時にこの場を支配した。若い身体はきっとあのころのように難なく加速し、トリックを操り、思い通りに滑ることができるはずだ。横目でうかがえばすぐそばにいきいきとした旧友の顔。
『3、2、1──』
 これを天国と呼ぶのなら、なるほどこれ以上のものは存在しない。

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