桐原珠美着任前
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もうこれ以上誰にも何にも引っ掻き回されたくないんだ放っておいてくれ、と葵は渡された履歴書の右上、意志の強そうな瞳を睨む。理事長である自分の元へその書類が回ってくるのは至極当然のことだったが、この立場で成したことがあるかと問われれば、それは甚だ疑問だった。
勝手にすればいいと思っている、自分に害がないのなら。
「あのじいさんも、何を考えてるんだかな」
「わかりません。とりあえずは、採用後に私の下につけてくれるよう手を回しておきました。葵さんは」
「調べておくよ。サンキュ、桔梗」
「いいえ。――葵さん」
いつもの柔らかい声。葵は空いた手でハイライトを咥えた。
「怖いお顔になっていますよ。いつもの余裕はどうしたんです」
ライターを弾く指が一瞬、止まる。桐原珠美の履歴書を桔梗に返し、今度こそ火を点けてから大きく息を吐いた。煙は桔梗の姿を隠して霧散する。
「オレにだって、守りたいものくらいあるさ」
視線は手元へ遣ったまま。
「そういうことは、守りたい人に伝えてあげてくださいね」
煙を浴びた履歴書を、持っていたファイルに戻す。そして別の書類の束をまた葵に渡した。
怪訝そうな顔をしながらも葵が受け取ったのを確認して、桔梗はにっこりと微笑む。
「何、これ?」
「昨年度の決算監査報告と、次の新人研修に関する書類です。放課後までに目を通して捺印しておいてください。ホームルームが終わったら取りに来ますから」
「はあ!? この量を?」
「決算の方は一度そちらを通したものの監査報告ですから、そんなに時間もかからないでしょう。新人研修だって毎年のことです。すぐに済みますよ」
桔梗の云うことはもっともだった。溜息をつきながら、葵は頭の中で放課後までのドライブルートを考える。
「葵さん、仕事に支障があるようでしたら車の鍵をお預かりしましょうか?」
「――わかったよ、やりますよ。判子押しゃいいんだろ?」
「ちゃんと中も確認してください」
「はいはい」
葵は書類を一枚捲って、あからさまに厭そうな顔をしたが桔梗は触れないでおいた。
「では、私は午後の授業の準備がありますので」
「ああ、サンキュ」
いつものように一礼して、デスクを離れる。少し躊躇してから、葵はその背に声をかけた。
「桔梗」
「はい?」
「オレは、お前のことも守りたいと思ってるよ」
「――放課後、また伺いますから。よろしくお願いしますね」
重厚なつくりの扉が、その外見に似合わぬ静かさで閉まった。
そういう甘さを持っているから、取り込まれてしまうんですよ。
本人には絶対伝えないことを深呼吸に代えて、桔梗は携帯電話を取り出した。
一部「薫り降る濡れた空」より。
(かこう。花の咲く時候)
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