タイトル通りだけど深刻ではない、超ハピエン
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幼馴染で腐れ縁。家が隣同士だから顔を合わせない日のほうが少なかった。幼稚園も小学校も中学校も一緒、高校は示し合わせてもいないのに同じところを選んでいて、そのあとは道が分かれたはずなのに、結局大人になって互いに実家を出て働いている今も、しょっちゅう会っては喧嘩している。
もう、そういうものなのだと思っていた。
どうせ嫌でもまた会う。そうしたら喧嘩をしたり、スケートをしたり、たまに酒を飲んだりして。それが何日おきの出来事かなんていちいち覚えていない。だって、どうせまた会うのだ。
──だから虎次郎は、いったいいつから薫に会っていないのか、記憶が定かでない。
そういえば最近薫を見ていないな、と思った。
来客もそう多くない木曜のディナータイム。二十一時を回ったところで今夜はこれ以上新規の来店はないと踏んで、アルバイトは先に帰した。あとは店内に残っている二組の客がエスプレッソとドルチェをたいらげるのを待つのが虎次郎の仕事だ。
厨房も片づけはあらかた済んでいるから、ホールが無人になったら残りの食器を洗って、テーブルクロスを替え、床を掃いて──ドアプレートをCLOSEDにして。
そういえば、あの六文字を自分専用のOPENだと思っている男が最近来ていない。最後に来たのはいつだったか、思い出そうとしても判然としなかった。これで相手が女であればいつどこで会ってどんなことをしたのか覚えているのだが、薫に限ってそれはない。あまり間隔は空けすぎないように二週間に一度くらいは会ったほうがいいかな、などと考える必要がないからだ。どうせどこかでばったり出くわすか、それでなくても薫が店へ来る。薫の週に何度かの食事は虎次郎が作ったものでまかなわれている。
姿を見せないのは仕事が忙しいのだろうか。あるいはその関係で会食があるから虎次郎の料理を必要としていないのかもしれない。もしそうだとしても酒くらい飲みに来たらいいのに。
虎次郎はカウンターの内側に立ってグラスを磨きながら、今は無人のカウンター席へ視線を落とした。向かって左から二番目、店の出入り口から最短の席。そこにグラスを置いてワインを注いでやるのだって、本当に嫌ならやらずに追い返している。
今日は来るかなと、閉店時刻に近づく掛け時計を見ながら思う。来たら久しぶりなのだしいつもより少しだけいいやつを出してやったっていい。店の大きなワインセラーには、よくオーダーされるカジュアルワイン、それよりもランクが上の記念日や接待用のワインの他に、メニューリストに載せていないワインが保管されている。お得意様か閉店後にやってくる男にだけ耳打ちするボトルだ。もしその中のものを開けるなら──いくつかの銘柄があるが、あれを開けるならペアリングする食材は、と思考を巡らせる時間が好きだった。薫は言葉にこそそうそうしないが、好みのものを食べると顔に出る。少なくとも虎次郎にとってはわかりやすすぎるくらいの反応をするから、いい反応を引き出せたらクリアのゲームをするようなものだ。
「すみません、お会計お願いします」
窓際のテーブル席で談笑していた女性客に呼ばれ、虎次郎は笑顔を向けてグラスを置いた。
「はい。お伺いしますのでお席でお待ちください」
この夜は結局、磨いたグラスの出番はなかった。
素肌にジャケットを着てバイクに跨る。夜風が肌を撫でてゆく感覚が心地好い。
前回Sへ行ったのはいつだったか、少し間が空いてしまった。今夜はなにも気にせず存分に滑れると思うと鉱山に着く前から少年のようにそわそわと浮き足立ってしまう。
それに、あれ以来店に姿を現さない薫が来ている可能性だってあった。虎次郎がイタリアへ渡っている間以外でこんなに顔を合わせないことがあっただろうか。仕事を兼ねて食事をしているという理由で虎次郎の店へ来ていないのなら、仕事と無関係のスケートで会う可能性のほうが高い。
ゲートの開く時刻に合わせて零時に着くと、あたりは以前と変わらずスケートにとりつかれた馬鹿者たちがひしめき合っていた。バイクに乗ったままぐるりと見回してみても、あの目立つ桜色の髪と白い羽織りと黒いバイクは見当たらない。
まだ夜は始まったばかりだ。あとから来るかもなと思いながら虎次郎はさして気に留めず駐車場にバイクを停めた。今夜はビーフの予定もなく、ひとまずは山頂から廃工場までのルートを下ってゆくことにする。誰かと競い合う興奮こそないが、女たちの歓声を浴びながら風を切り、気まぐれにトリックを決めて場を湧かせることも十分に高揚を呼ぶ。
その合間合間に虎次郎は周囲へ視線を走らせた。だがどこにも、ここでジョーと唯一対をなすチェリーブロッサムの姿はない。
滑り降りた先に馴染みの顔を見つけ、虎次郎は彼らの前でスケートを止めた。
「よお」
「ジョー!」
暦がぱっと顔を輝かせる。
「来てたのか!」
「久しぶりだな。元気か?」
「もちろん。俺ら今から滑るんだ。な」
「ああ」
暦の隣でランガが微笑んで頷く。トーナメント以降の彼らは終始この調子で、一時期はどうなることかと思いながら見守っていたがもうその必要もないらしい。同い年のスケート仲間という点では虎次郎と薫と同じはずだが、あまりにもかけ離れた関係に眩しささえ覚える。
「なあ、薫見たか?」
「いや、見てねえな」
答えたのは広海だった。もはや本名を呼んでいることに指摘も入らない。
「そうか……」
「ちょうど今その話してたんだ。最近チェリーとジョー見ないよねって」
ランガが言う。暦の歓迎はそのためかと虎次郎は納得した。虎次郎もここへ来るのは久々だったが、薫もその間来ていなかったらしい。
広海がちらりと虎次郎へ視線を向けてから、ふうと息を吐いた。
「あんまり来ないと取り巻きが泣くぞ」
「はは、言っとくよ」
少し離れたところにジョーのファンが集まって虎次郎を気にしている。虎次郎がグローブをはめた手をひらりと振ってみせると、遠目にも彼女たちがはしゃぐのがわかった。
虎次郎が薫と会っていないと気づいてから一ヶ月が経っていた。
『仕事忙しいのか? たまには飯食いに来いよ』
当たり障りのない無害なメッセージなのに妙に緊張しながら送信ボタンをタップした。誕生日でもないのにわざわざこんなことを言うなんて。送った吹き出しの横を見つめて、五秒、十秒、三十秒、一分。なんの変化もない画面を見つめながら、忙しくしているのならさすがにそんなにすぐは見ないかと言い聞かせてスマートフォンを置いた。
その言い聞かせはまったくうまくゆかず、そわそわと何度も同じ画面を確認してしまう。だが返事が来るどころか既読の文字もつかないまま。
虎次郎はひとつ大きく溜息をつくとスマートフォンをポケットにしまい、財布を持って外へ出た。市場での買い出しの帰りに薫の家へ寄ってみよう。腹を空かせているようならそのままなにか作ってもいい。今日はディナーのみの営業だから日中は時間に余裕がある。
そう思って普段よりも多く野菜や肉を買い、虎次郎の家や店からもほど近い桜屋敷書庵へと向かった。外での仕事中でなければここにいるはずだ。チャイムを鳴らして応答を待つ。
しかし屋敷はしんと静まり返って、なんの反応もなかった。ひとのいる気配もせず、表から見える範囲の窓はすべてすだれが落ちて暗い。
「カーラ?」
セキュリティを守る女に話しかけてもやはり応答はないまま。
ということは仕事で外へ出ているのだろう。毎日自分の店に立って料理をしている虎次郎と違って薫の仕事は不規則だ。地元で書道のパフォーマンスをしたかと思えば、次の日には東京で人工知能に関する講演をしていたりする。招聘されて海外に飛ぶことも、作品制作のため一週間以上篭りきりになることもある。今日どこでなんの仕事をしているかは知らないが、ここにいないのなら待っていても仕方ない。
薫に会うのは諦めて踵を返し、店への道を歩き出す。と、そこでようやく、薫がAI書道家として運用しているSNSアカウントの存在を思い出した。普段は意識して見ていないから──そんなものを見なくても本人に会うので──今の今まで忘れていた。
虎次郎も店のアカウントを持っていてたまに宣伝に使っているそのアプリを起動して、薫の名前を検索する。目当てのアカウントはすぐにヒットした。最新の投稿は四日前、題字を書いた小説の作家と対談した旨が書かれていた。
生きてはいるようだ。だが。
「……ちゃんと食ってんのかよ」
虎次郎はスマートフォンの画面に向けて小言を言った。
薫のアカウントは徹頭徹尾仕事の宣伝と告知に終始している。何月何日に発売される雑誌に取材記事が載りますとか、来期のこのドラマの題字と映像演出を担当しましたとか、AI書道家・桜屋敷薫がどういう活動をしているのかを伝えるためのアカウント。プライベートでどう過ごしているかがわかる日記のような投稿はない。
落ち着かない気持ちを抱えたまま店に入り、ディナーの仕込みを始める。ひとりで黙々と手を動かしていたところにドアベルの音が響いて虎次郎はハッと顔を上げた。
「薫?」
ディナーの営業を始めるまでは、表のプレートはCLOSEDのままだ。慌てて厨房からホールへ出たがそこにいたのは薫ではなかった。
「パパー、おなかすいたー」
「お前なあ……」
外見は薫と似ても似つかないが、このところ内面が似てきてしまっている少年がそこにいた。実也は制服姿で小首をかしげ、上目遣いで虎次郎を見る。
「おやつが食べたいな」
もちろん薫は天地がひっくり返っても虎次郎にこんな顔は見せないのだが、目的のために態度を変えられるという点でやはり薫に似ていた。
虎次郎は店内のテーブル席を指差して実也を座らせる。
「たまには薫に奢ってもらえ。あっちのほうが金持ってるぞ」
「うーん、でもチェリー忙しそうだし」
「忙しいって? あいつがそう言ったのか」
「ううん。連絡しても返事がないからそう思っただけ」
「連絡取ったのいつだ?」
「さっきだよ。ここに着くちょっと前」
ほら、と実也がメッセージアプリの画面を虎次郎へ向ける。実也が薫へ送ったメッセージと猫のキャラクターのスタンプに対し、確かに返事は来ておらず、ただし「既読」の表記はあった。
虎次郎は自分のスマートフォンで同じアプリを確認した。『たまには飯食いに来いよ』の吹き出しの横はさっきと変わらず、なんの文字もない。
「チェリーとなんかあったの?」
実也の声に気遣いが混じる。少し前、暦とランガがすれ違っていたときも実也は同じように気にかけていた。
中学生に心配されているようでは世話がない。虎次郎はなんもねえよと答えてから、うんと甘くしたカフェオレとビスコッティを出してやった。
実也が来たときの一件以降、何度か送ったメッセージにもいっこうにリアクションはなく、いよいよ虎次郎個人が避けられているようだと認識せざるを得なくなった。避けられるようなことをした覚えはまったくないのだが、こうも本人と接触できないとなると理由を確かめようもない。
この数ヶ月間ずっと薫は相変わらず店にもSにも姿を現さず、ときおり更新されるSNSと、取り沙汰されているテレビや取材記事で見かけることしかできなかった。これでは書道家の薫のファンと立場が変わらない。
薫の宣伝する仕事の中には、一般の観客を募るイベントもあった。ご都合のよろしいかたはぜひいらしてください、などと書き添えられた催しごとの告知をいくつか見送るうちに、虎次郎の店の定休日である火曜日にはその類の仕事がないことに気がついた。これもおそらく意図したものだろう。土日だけでなく月曜にも金曜にもあるのだから火曜にあっても不思議ではないのに、そこだけぽっかり抜け落ちたかのように虎次郎が見に行けるような仕事はなかった。
加えて薫の告知はいつも急だった。明日は東京のスタジオで生出演、観覧者募集なんて言われても行けるわけがない。明日は日曜で、ランチの開店と同時に満席の予約が入っていて、ディナーはコースが三組。アラカルトが二組。こんな私情で前日に予約客に断りの連絡を入れて店を閉めるなんて選択肢は存在しない。規模こそ決して大きくはなくてもこの店は虎次郎の城で、虎次郎は主なのだ。それ相応の矜恃はある。
だからもうこれ以上、虎次郎には手の打ちようがなかった。
自分の店を離れられない虎次郎と違って、薫は書庵でなければ仕事をできないなんてことはない。もちろんあの屋敷は薫が仕事をしやすいように最適化された場所ではあるが、究極を言えば墨と筆と紙さえあればいいのだ。薫の顧客は世界中にいて、薫はその身ひとつで飛び回れる。誰よりも優秀なAIアシスタントは今も薫をサポートしているのだろう。虎次郎の手料理などなくてもやっていけるのだと暗に突きつけられたようで、今までの傍若無人はなんだったのかと苛立ちもありつつ、それをぶつける先すらなくてはどうしようもない。
「南城くん。久しぶりだね」
「いらっしゃいませ、玉城さま」
得意客のひとりである玉城がランチにやってきたのを、虎次郎は完璧な笑顔で出迎える。今日は接待ではなく奥方を連れていて、顔を見ながら食事のできるテーブル席へ通した。
「お久しぶりですね。以前いらしたお客様とはその後いかがですか。あの、書道家の先生でしたか」
「ああ、桜屋敷先生か。彼もきみの料理を褒めていたよ。ああ見えてけっこう味の濃いものをお好きな先生でね」
知っている。知っているし、おべっかでも褒めるなら直接聞きたかった。
「それはよかった。ぜひまたどうぞ」
「そうだな。ちょうど近いうちにまたお会いすることになっているから、ここへ来ないか訊いてみよう」
え。と声に出さなかったのは、あるべきリアクションが長年の接客業の結果体に染みついているからだ。
玉城と会うのなら場所は当然この沖縄だろう。外へ出る理由がない。てっきりどこか遠くへ行方をくらませているものと思っていたが、こちらでも仕事は続けているのか。それにしたって通りかかるたびチャイムを鳴らしている桜屋敷書庵はいつも無人だ。建物の中は暗いし、薫が雇っているアシスタントのバイクも停まっていない。
虎次郎は茫として膨らむ胸のわだかまりを閉じ込めると、いつもどおりの人好きのする柔和な笑顔を浮かべたまま、まろい声で答えた。
「ありがとうございます」
きっと薫は和食かフレンチか中華あたりを提案して、ここには来ない。
『来週から個展が始まります。初めの一週間は私も在廊いたします。皆様のお越しをお待ちしております。』
仕事を終えてそれなりにぐったりしている頭にその文字が飛び込んできた瞬間、疲労はどこかへ消えていった。個展。在廊。一週間。その下には京都のギャラリーの名前と約一ヶ月の会期が告知されていた。「会期中無休」の文字に背中を押されるようにして、慌ててカレンダーを確認する。個展が始まるのは金曜日で、それから一週間は薫はそこにいると言う。京都なら日帰りで行けないこともないだろう。
こんなチャンスがこの先いつあるかわからない。虎次郎はすぐに、火曜日の那覇─伊丹便のチケットを予約した。フライト直前の航空券はこんなに値が張るのかと驚いたがこの状況では些末なことだった。
当日朝の飛行機で伊丹空港まで飛んだあとは、空港からリムジンバスで京都駅へ。そこから地下鉄で数駅移動してようやく目当てのギャラリーに辿り着く。京都なんて修学旅行以来だ。
「すみません」
しんと静謐なまでに音のないギャラリーへ足を踏み入れ、展示を見るのもそこそこに会場にいた袴姿の男性に声をかけた。
相手は知らないだろうが虎次郎は彼を知っていた。薫のパフォーマンスでアシスタントをしているところを見たことがある。
「か……桜屋敷先生は、」
「奥の区画にいらっしゃいますよ」
「ありがとうございます」
会場内には老若男女さまざまな層の客が訪れて、みな薫の書をじっと見つめていた。薫がいないところで薫の書だけを見るのは初めてかもしれない。普段は喧嘩ばかりで品のかけらもないのに、こうして書に向き合うと思い出すのは言い合っているときの釣り上がった眉や目ではなく、筆を持ったときの真剣そのものの横顔だった。
教わったとおりに会場内を進んでいくつかの角を曲がると、天井に近い高さのひときわ大きな作品の前に薫がいた。桜色の髪に懐かしささえ覚える。いま着ている萌黄色の着物は初めて見かけるものだ。
パトロンだろうか、スーツ姿の男性と話している。彼らの話はちょうど終わったところだったようで、虎次郎が薫のほうへ歩いてゆく途中で男は去っていった。
薫、と声をかけるより先に薫が虎次郎に気づいた。さして驚くふうもなく営業用の笑顔のまま、閉じた扇子の先端を口元にあて、けれど目の端だけは仕事相手には向けない悪戯っぽい細められ方をしている。まるで虎次郎が来ることなんて初めからわかっていたかのように。
虎次郎が前に立つと、薫は表情を崩さずに囁いた。
「大声を出すなよ」
半年ぶりに会って一言目がそれか。虎次郎は勢いを削がれて眉をひそめる。
「ひとを暴漢みたいに言うな」
「似たようなものだぞ。鏡を見せてやろうか。ジーンズに穴が開いていないことだけは褒めてやってもいいが。……ああ、竹下さま。ご無沙汰しております」
薫が虎次郎の肩越しに挨拶を向けた。振り返ると初老の男性が順番待ちかのように虎次郎の後ろに立っている。にこにこと棘のない笑顔を見せているが薫と懇意にしているのなら相応に資産家かつやり手なのだろう。
薫は一歩前へ踏み出すと、すれ違いざま虎次郎の耳に吹き込んだ。
「もう少ししたら休憩に入るから裏のカフェにでもいろ」
この状況でそう言われては、虎次郎にできるのは従うことだけだ。
展示を見るのも落ち着かず──もともと虎次郎は書に明るくないし、薫本人がいてはそちらばかり見てしまう──早々にギャラリーを出た。建物の裏手へ回ると薫が言ったとおりチェーンのカフェがあったので入店してカフェラテを注文する。そのカップが冷めないうちに薫は姿を現して、カウンターで注文したペーパーカップを持って虎次郎の向かいに座った。
「ずいぶん時間がかかったな」
涼しい顔でカップを傾ける。こんなふうになにかを飲む薫を見るのも久しぶりで、虎次郎はここが自分の店であればよかったのにと思った。
「お前な……」
「今までだってたくさんヒントをやっただろう。金がなさすぎて航空券も買えなかったか」
店の営業日にばかりヒントを出しておいて、虎次郎が店をないがしろにしないことをわかっていてそういうことを言うのだから意地が悪い。
「金なんて……逆だよ。他のこと手ぇつかねえから、この半年で貯まる一方だ」
「それはなにより。そのままでいたほうがよかったな」
「よくねえよ!」
「なぜだ」
「なぜって……」
薫はカップを置くと、切れ長の瞳で虎次郎をじっと見た。怒っているのでも呆れているのでもからかっているのでもない、ただただ見つめてくる金色の瞳。
「俺がいなくても、別に困らないだろう」
「……困る」
「なぜ」
なぜ?
「俺がいないと、お前のなにが困ると言うんだ」
薫の目があまりにまっすぐに虎次郎を捉えるので身動きがとれなくなってしまう。視線に眼球から脳まで縫い止められてしまったかのようだった。
なぜ? だってこの半年間、ずっと薫のことを考えていた。どうして姿を見せなくなったのかと心配したし、虎次郎以外とは関わりがあるのだとわかると自分がなにかしてしまったかと不安にもなった。なにも言われないままどこかへ行かれたことへの不服もある。自他共に認める筋金入りの女好きの虎次郎がろくに遊びに行きもせず、薫がどこにいてなにを食べているのか、そんなことばかりを気にかけていた。
なぜ? なぜって、そんなの、
「──おまえが好きなんだ」
口からこぼれ落ちた自分の声を耳で拾って、虎次郎は、そうか、と思った。
そうだったのか。自分のことなのに、自分と薫のことなのに、今この瞬間まで知らなかった。
気づいてみればそれは虎次郎の中へすとんとまっすぐに落ちてきて、あまりにもぴったりと収まった。この状態こそあるべき姿で、自覚していなかったときのほうが不自然に欠けていたのだ。
なるほどそうだったのかと他人事のように納得する一方で、よく考えたらとんでもないことを口走ってしまったような気もだんだんとしてきた。気色悪いと蹴り飛ばされることを想定しつつ、ゆっくりと瞬きをしてから薫の様子をうかがう。
真正面から視線が合った、薫は目を眇めて口角を上げると、それはそれは満足げに、遅い、と言った。
「大体なあ、いなくなった奴を探すっつったって、どうやって探せって言うんだよ」
「俺はお前がいなくなっても三日もあれば探し出せるが」
「え、怖」
「地球の裏側まで飛ばれた場合は移動時間をプラス一日だ。いなくなる予定があるのか?」
「ねえよ……」
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