鉱山の狸

構うのは好きだが構われるのは死ぬほど嫌いな愛抱夢と構うのをやめた薫

 トーナメントの前後で、Sはあまり変わらなかった。
 予選を勝ち抜いたメンバーはそれぞれに想いをもって戦いに臨んだが、それはその個人のことだ。安全な場所から好き勝手に囃し立てる外野も、トーナメントで負けた者も傷を負った者も、そして愛抱夢を倒したスノーも、前と変わらず夜の鉱山を訪れてはスケートで滑っている。
 そもそもトーナメントとは言え、Sは競技スポーツの公式戦でもなんでもない。メダルも賞状も賞金もなく、あるのはこの場所でのみ有効な名誉だけだ。それも優勝者であるランガにとっては特別欲したものでもなく、知らない人間にビーフを挑まれることこそ増えはしたが、暦と滑るのが唯一で一番なのは変わらない。他の者も似たようなものだ。
 そんな中ひとつ目に見えて変わったことといえば、これまでめったに姿を現さなかったこの場の創設者の愛抱夢が以前よりも頻繁に訪れるようになったことだった。誰かとビーフをすることはそうなくても──愛抱夢が対戦相手にどんなスケートをするか皆もう知ってしまっている──その高い技術力を目の前で見せられたら、場は無条件に湧くのだった。

「また群れているのかい」
 いつもの派手な登場ではなくごくごく普通にスケートに乗って現れた愛抱夢は、目当ての人物の元までまっすぐに進んでぴたりと止まった。
「愛抱夢」
 ペットボトルの水を飲んでいたランガが顔を向ける。流れるようなしぐさでペットボトルを暦へ渡すと、暦は残っていた水を飲み干してキャップを閉めた。
「そんなところにいないで、僕とビーフしないか?」
 鉱山の開けた一角、ランガの周りには暦だけでなくシャドウやミヤ、そしてチェリーブロッサムとジョーもいた。いつの間にかつるむようになっていたいつものメンバーだ。先のトーナメント期間に病院の世話になったチェリーとシャドウもすっかり回復し、愛用のスケートを携えている。
 ランガは首を横に振った。
「今日は暦とあっちで滑るから」
 そう言って近くのバーチカルを指差す。普段の公園で使っているアールよりもはるかに大きなそれは高く跳ぶだけで楽しく、どちらがより高く跳べるか競おうと、ここへ来る途中で話していたのだ。な、とランガが暦へ向くと、暦は歯を見せて笑い、おう! と答えた。
「残念。じゃあビーフはまた今度、だね。ランガくん」
「ああ」
 深追いはしない。逃げられるわけでもなし、楽しみを先に取っておくのもまた良いものだ。
 さて。愛抱夢はゆるりと周囲を見回した。ここで軽く滑ってもいいが、今日は廃工場まで一気に滑り降りてゆきたい気分だった。ひとりで滑るか、それともふさわしい相手がいるなら突発でビーフをするか。
 仮面の下の視線がさまよって、チェリーの視線とぶつかった。
 きつい吊り目の瞳に正面からぶつかり、そして──すい、と視線を外したのはチェリーのほうだった。そのあと隣にいるジョーになにかを言ったようだが声までは聞こえない。
 おや、と愛抱夢は思う。
 愛抱夢がこれまで関わった人間の中で、誰よりも愛抱夢のスケートに執着したのがチェリーだった。まだ制服を着て街中を滑っていたころ、Sなんて必要なかったころの愛抱夢のもう過去に置いてきた姿を、チェリーだけはいつまでも見つめ続けていた。
 それがたまらなく鬱陶しくてあんなふうに死んでもおかしくないような怪我までさせたのに、チェリーは早々に復帰してスケートに乗り、Sに来て、愛抱夢の前でも姿を隠さない。逃げもしなければ怒りもせず、まるでここに愛抱夢はいないとでもいうかのような態度だった。以前のチェリーならランガとの会話に割って入ってビーフを挑んできても不思議ではないのに。
「やあ」
 愛抱夢が声をかけるとチェリーとジョーが揃って顔を向けた。
「そんなところで燻っているくらいなら滑らないか?」
「は、」
 ジョーが間抜けな声を上げる。
「ねえ? チェリー?」
 もったいぶりながら水を向けた。これまでチェリーが愛抱夢にビーフをしろと声をかけたことはあれど逆は一度たりともなかった。願ってもない機会だと飛びついてくるに違いない、愛抱夢の知っているチェリーブロッサムはそういう男だ。
 そばで会話を聞きつけたギャラリーが静かにざわめき始める。愛抱夢がビーフだって? チェリーブロッサムと? トーナメントのリベンジか?
 にじり寄る期待を散らすように、チェリーは深く息を吐いた。
「……いや、いい」
「え?」
「俺はやめておく」
 予想していなかった答えに愛抱夢は虚をつかれ、反応するタイミングを逃す。代わりにチェリーが言葉をつなげた。
「あのあと……病室でひとり考えていた。お前に言われたことを」
「おい、薫、」
 ジョーが口を挟んだ瞬間チェリーがジョーの足を真上から踏んだ。ジョーは短く呻き、喋るのをやめる。
「俺のスケートはつまらないのか? ……ああ、確かにそうかもしれない。なにしろ俺は、お前のようにスケートの上で踊り出すことも、ランガのように道なき道を高く跳ぶこともない。そういう奴らに比べたら俺の計算通りのスケートはひどく平凡なのだろう」
 真正面から言われて愛抱夢は口を歪めた。つまらないと言ったのは心の底から思っていたことだが、本人がこうも淡々と肯定するのもそれはそれで不気味に思える。
「だからもうやめる。本当はお前と廃工場まできっちり滑ってビーフしたかったが、あんなふうに拒絶されてまで再戦を挑むほど俺も身の程知らずではない。今までしつこく突っかかってすまなかったな」
 ぺらぺらとよく回るチェリーの口に耐えかねてジョーは愛抱夢へ背中を向けた。望むと望まざると長い付き合いだ、彼のなにが本心でなにが方便かなんて嫌でもわかる。チェリーが愛抱夢の過去の姿を追い続けていたように今のチェリーの本質を知ろうとしない愛抱夢にはわからないだろうが。
 愛抱夢が一歩踏み出して、ざり、と土を擦った。
「逃げるのか?」
 低い声。チェリーが眉尻をぴくりと上げる。
「きみが今どういうつもりかなんてどうでもいいんだよ」
「勝手なことを言う」
「チェリー。僕がビーフしてやると言っているんだ」
 声にかすかに苛立ちが混ざる。こんな声、普段なら忠の前でしか出さないのに。
 チェリーは愛抱夢をじっと見つめ、ゆっくりと目を細めた。時間をかけてじわじわと。大声を上げて笑い出してしまいそうなのを必死に我慢して。
「愛抱夢」
 ひとつ大きく呼吸して、チェリーは胸元に下げていた黒い布を引き上げて口を覆った。その声から主人の意図を察知したカーラがピンク色に発光し、すぐにでも始まる勝負に向けて待機モードからレースモードに切り替わる。
「その言葉、忘れるなよ?」
 マスクの下でチェリーの薄い唇が完璧な弧を描いた。

「ふっ……ふふ……アハハハ……!」
 廃工場のWINの文字を超えたチェリーが鋭くターンして止まる。直後に肩を大きく震わせながら笑い声を上げたのは勝敗とは無関係だった。こうも笑っていては息が苦しく、マスクに指を引っかけて下ろす。現れた唇は三日月の形をしていた。
「なにがおかしい」
 スケートから降りた愛抱夢が眉をひそめる。どちらも最後まで地面に降りずゴールラインまで滑りきった、こんな小馬鹿にする笑い方をするようなことはなかったはずだ。フルスイングキッスだって今日はやらなかった──どうせもう対策を立てられているだろうから。
 チェリーは愛抱夢へ向き直ると涙の浮いた目元を拭った。
「はぁ……カーラ、教えてやれ」
『「僕は構うのは好きだが構われるのは死ぬほど嫌いなんだよ!」』
 カーラから愛抱夢の声が聞こえてきた。トーナメントで暦と戦ったときに愛抱夢が言った言葉だ。
 突然の録音再生に愛抱夢が面食らっているとチェリーは右の腰に手を当て、はぁ、とわざとらしく溜息をついてみせた。
「お前、自覚あるのにこんなに乗せられやすくて大丈夫なのか? 騙されたらすぐ失脚する仕事をしているのだから少しは気をつけろ」
「なっ……」
 ゴールで待っていたジョーがチェリーの発言にブフッと吹き出す。
「おい薫、ここで仕事の話に触れてやるなよ」
「お前もだこの脳筋ゴリラ」
「いってえ!」

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