秘密は土の匂い

薫がうっかりモブを殺めてしまい埋めに行くジョーチェリ

 家が近い。幼馴染なのだから当然だ。用事はなくとも、相手の家の前を通りかかることはよくあった。ふたりとも生まれ育った家はもう出ているが、それでもなんだかんだで生活圏が被る程度の距離に暮らしている。
 だからその夜、虎次郎が大きな屋敷の前を歩いていたのもまったくの偶然であった。

 夜がじわじわと更けゆく、健全な家庭はもう眠りについている時刻。虎次郎は馴染みのバーで女たちと楽しくお喋りに興じ、別れ際にキスをしてひとり帰路についた。
 Sであればこれからが本番という時間だが世間はもちろんそうではない。外を歩くひとなどゼロに等しく、周囲の家々の窓から透ける明かりもまばらだ。ぬるい風がときおり吹いて、胸元や脛を撫でて去る。アスファルトをスニーカーのソールが擦るざりざりという音を連れながら、幼いころから歩き慣れた道をこれといった感慨もなく進み、幼馴染の住居兼事務所の前を通りかかった虎次郎の耳に、どすんという大きな物音が届いた。
「……?」
 早足で歩いていたのをぴたりと止める。音はたしかに、桜屋敷書庵の中から聞こえてきたものだった。
 屋敷のほうへ顔を向ける。見える範囲の窓はすべて暗い。夜型の薫がもう眠っているのなら珍しい──と納得して素通りするには、先の物音はあまりにも不自然だった。
 なにか大きなものを倒したのか? こんな暗い中で?
 それとも寝ぼけて転んだ? それで頭を打ってはいやしないか?
 悪い想像が虎次郎の胸をざわつかせる。このまま素通りする気にはとてもなれなかった。
 何事もないならそれでいい、それが一番いい。物音の出どころが虎次郎の勘違いで、寝つきの悪い薫の睡眠を邪魔して怒らせたとしても、怪我をしていないことを確かめられるほうがいい。
 虎次郎は屋敷の前の数段の階段を上がり扉に手をかけた。なんとはなしにやった行動であったが、しかし扉はあっけなく開いた。
 無用心だ。薫らしくない現状がいっそう虎次郎の眉をひそめさせる。
 家の中へ入り、扉を閉める。玄関も廊下も真っ暗で、見えない闇の中に声を投げた。
「……薫?」
 返事はない。
「いるのか、薫?」
 スニーカーを脱いで家の中へ上がる。返事はやはり返ってこない。
 しかし家の中を探し回るまでもなく、家主は入ってすぐの部屋にいた。開け放たれていた戸から中を覗くと部屋の奥に座り込んでいるらしいのがわかった。暗くて顔は見えないが、畳を擦る音と薫の気配がする。
「ひっ……」
 薫が上擦った声をあげた。畳に手をつく音がする。座ったまま後ずさったようだった。
 そこに薫がいるのは間違いないが、明らかに様子がおかしい。
「いるじゃねえか。なにしてんだこんな暗い中で」
「やめろ明かりをつけるな!」
 薫が一息で、小声で鋭く叫んだ。二十年以上一緒にいるのに初めて聞く声だった。
 気圧されて、虎次郎は照明のスイッチに伸ばしかけていた手を止める。
「どうした、なにかあったのか」
 努めて穏やかに尋ねながら虎次郎は部屋へと足を踏み入れた。
 部屋の中を窺ってから今の今まで、虎次郎は薫しか見ていなかった。あたりは暗く、他を無意識のうちに視認するのは困難だ。
 だから気づかなかった。部屋の中にもうひとりいることに。
「っ、なに……」
 二歩進んだところでなにかにつまずいてよろめいた。咄嗟に踏みこたえてなんとか転倒は免れる。虎次郎の知る限りこの部屋のこんなところに障害物はなかったし、そうでなくとも入ったばかりのところに物が置かれている部屋なんてあまりない。
 薫に向けていた視線を足元へ落とす。暗さに少し目が慣れて、だんだんと部屋の様子が見えてきた。
 濃淡で描かれた視界の中に浮かびあがったそれは、ひとの形をしていた。
 薫と同じくらいかひとまわり小柄なくらいだろうか。つまり平均的な成人男性の体格だ。それが妙な姿勢で畳の上に横たわったままぴくりとも動かずにいる。
 顔を上げると薫は部屋の隅に座り俯いていて、視線は合わなかった。
「……薫」
「違う」
「薫、」
「違う、俺は……、そいつが急に上がり込んできたから追い出そうとしただけだ、少し押しただけだ……っ」
 顔を伏せたまま薫がそうまくし立てた。それだけで虎次郎は、ここでなにが起きたのかなんとなく想像がついた。
 薫の言ったことは本当なのだろう。強盗が侵入して住人に鉢合わせ返り討ちに遭った、そんなところだ。強盗にとって不幸なことにこの見るからに立派な屋敷の家主は平均以上の体格と腕力を持っており、手入れされた畳は靴下を履いているととてもよく滑る。きっとそれだけの、不運が重なった事故だ。
 虎次郎はジーンズのポケットからスマートフォンを取り出した。部屋が暗いせいで、ディスプレイが眩しすぎるほどに明るく光る。
 その明かりに気づいた薫がはっと顔を上げた。
「なにをする……」
「なにって、救急呼ばねえと」
「無駄だ」
 渇いた声で薫が切り捨てた。虎次郎は眉をひそめる。言わんとしていることを理解した瞬間、心臓が胸の内から虎次郎を揺さぶった。
「……じゃあ警察か」
「やめろ!」
 薫が腰を上げて虎次郎に飛びかかった。バタバタと珍しく乱暴な足音が聞こえたかと思えばすぐ目の前に薫がいて、あ、と思ったときにはその勢いに押し倒されていた。虎次郎が尻餅をつきその上に薫が覆い被さる。ろくに受け身も取れず倒れ込んだその音は、さっき外を歩いていたときに聞こえた音によく似ていた。
 手の中から取り落としたスマートフォンが畳を滑り、そこにいる誰かにぶつかって止まる。ディスプレイの明かりが彼の衣服の裾を照らした。ここで倒れているのが悪い夢でも見間違いでもなく確かに人間なのだと思い知らされたようで全身がぞくりと粟立つ。
 薫は虎次郎の両肩を掴んだまま、唇を噛んでふぅふぅと大きく呼吸を繰り返している。長い髪が垂れて虎次郎の頬をくすぐった。ここがベッドで相手が女であったなら魅力的なシチュエーションだが、とてもじゃないがそんな状況からはかけ離れていた。
「故意じゃねえんだろ?」
「当たり前だ! だが……駄目だ、絶対に駄目だ、俺は……こんなことで……」
 こんなこともなにもひとが一人そこで死んでるんだぞと虎次郎は言いかけて、やめた。肩口を痛いほど握りしめてくる男がどれほど頑固で他人の話を聞かないか、うんざりするほど知っている。
 薫は一度ゆっくりと目を閉じて、開いて虎次郎を見た。虎次郎を押し倒したまま唇だけを動かして言う。
「……見なかったことにしろ」
「は?」
「お前はここに来なかった。当然なにも見なかった。いいな」
「そんなこと言ったって、」
「頼む……、虎次郎」
 虎次郎はここに来なかった。この家にいるべきではない奴がいることも、薫がこんなに震えていることも知らない。不自然なほど大きな物音なんて聞いていない。
 そう言えということだ。──誰に? 警察に?
 たとえ虎次郎がわかったそうすると言ったって、足元に転がっている死体が消えるわけではない。お前がそう言うならそうするよじゃあなと踵を返したとして、薫はそのあとひとりでどうするつもりなのか。どう考えたって、これをこのまま放っておくわけにはいかない。
 いま明かりをつけなかったとしても、あと数時間もすれば窓から陽が射す。薫の明日の仕事の予定など虎次郎は知らないが、弟子やらアルバイトやら顧客やら、いろんな人間がここ出入りすることは知っている。他でもない、この部屋へ。
「ちょっと待ってろ」
「……なに?」
 固まっていた薫を押しのけて体を起こす。薫は抵抗しなかった。
「車を回す。バイクじゃ無理だろ。お前はソレを……あー、なんだ、運べるようにしておけよ」
 言い残し、なにか言いたげな薫から離れるように部屋を出る。
 外の世界は変わらずしんと眠りについていて、風は生ぬるかった。

 できうる限り静かな運転で桜屋敷邸の前へ車を停める。玄関を覗くと、さっきまで直視するのもはばかられたソレは青いビニールシートに包まれて、紐で雑に縛られていた。
「……これでいいか」
 薫はそのかたわらに立って目的語の定かでない問いをした。
 さっきまでは着物を着ていたが、虎次郎が車を取りに行っているあいだに着替えたようで、今はパーカーと細身のスラックスを身につけていた。洋服姿を見るなどいつ以来だろうか。顔を見られないようにするためだとわかっていても、パーカーのフードを被っていると愛抱夢を思い出してしまう。目立つ髪は結いあげてフードの中にしまっているらしく、虎次郎からは前髪しか見えなかった。
 思わず状況も忘れて頭のてっぺんから爪先までをしげしげと眺めていると、薫は居心地悪そうに視線を逸らした。
 それから左手首のバングルを外し、そっと棚に置いた。
「いいのかよ」
 虎次郎は機械のことは詳しくないが、薫が開発を始めてからこれまで、生み出したAIをその身から離したところを見たことがない。彼女はそのときどきによってバングルであったり、スケートボードであったりしたが、あらゆる姿を得ていつも薫と共にあった。
 薫はちらりとバングルへ視線をやって首を横へゆるく振る。
「プログラムに絶対はない。リスクがあるなら排除すべきだ」
 見た目からはわからないが、邪魔にならない細さのこのバングルはカーラに活用するために常に位置情報を記録したり音声を録音したりしている。当然その機能をオフにすることも可能ではあるが、それよりも物理的に外しておくほうが確実なのだった。
 薫は三和土に出していたブーツを履いた。虎次郎も見たことがある、一年のうち数回だけ、この島の短い冬にたまに使う黒いショートブーツ。草履と比べたら動きやすさや脱げにくさは歴然としている。
 こんな状況なのにふたりとも言葉は少なかった。普段の応酬が嘘のようだ。虎次郎がいちど車へ戻ってトランクを開けるあいだ薫はじっと待っていて、戻ってきた虎次郎と一緒にビニールシートで包まれた塊を持ち上げた。会話はなくても相手がどう動くのかわかる。自分がどう動けばいいのかわかる。
 両手のひらにずしりとかかった重さは鉛のようだった。単純な直線や曲線ではないいびつさと柔らかさが、この中になにがあるかを知らしめてくる。一秒でも早く手放したい衝動を宥めながら、音を立てないようそっとトランクに押し込んだ。
 助手席に座った薫がシートベルトを締めたのを確認し、虎次郎がそっとアクセルを踏む。どう考えたってシートベルトよりも積荷の心配をしたほうがいいのにと薫は少しおかしく感じたが、笑う気など当然起きない。
 車は書庵から逃げるように離れて国道へ入るとひたすらに北上するルートをとった。たまに大型トラックとすれ違うほかは等間隔の街灯の明かりが見えるだけで、こうも暗くては見える景色は変わらない。定期的に現れる道路標識だけが、車が間違いなく移動していることを実感させた。
「……どこへ行くんだ」
「見つからないところ」
 虎次郎はカーナビも使わずにまっすぐ前を見て運転している。
 薫は口を開けてなにかを言おうとし、そのまま閉じた。そういえばひどく喉が渇いている。レストランの明るい照明と舌を喜ばせるアルコールが恋しかったが、現実は真逆、暗いほうへもっと暗いほうへと進んでゆく。

「海へ行くのかと思ってた」
 アスファルトで舗装された道路から砂利に覆われた悪路へ移り、ガタガタと揺られながら傾斜を登る。もはや地図に道として記録されているのかも怪しいような山道を登った先で虎次郎は車を停めエンジンを切った。は、とふたりとも詰めていた息を同時に吐き、薫が言うと、虎次郎は顔を横へ向けて薫を見た。
「なんで」
「なんとなく」
「……上がったら厄介だろ」
 死体が、だ。なんて会話だ。
 しかし虎次郎の言うことは珍しく理にかなっていたので薫はこの話題を終わりにした。ふたりでやっと抱え上げたひとの身体も、波にかかれば紙のように海中をたゆたう。赤の他人とはいえなにかの拍子に岸に上がってしまったら薫にたどり着いてしまうかもしれない。
 車を降りて吸う空気は町のものよりも冷たく澄んでいる。
 虎次郎がトランクの中からシャベルを二本取り出して片方を薫へ渡した。それなりに使い込まれたシャベルの柄のざらつきを撫でながら薫は眉をひそめる。
「なんでこんなものを二本も持ってるんだ」
「外で必要なときに家に置いてて仕方なく買い足したんだよ」
 虎次郎がこれもトランクから出したランタンを持ってさっさと山の茂みへと歩いていった。薫はその光と足音を追いながら、そういえばいつだったか虎次郎が突然キャンプをしようと言い出して薫を巻き込んだときにあのランタンを持っていた気がすると、ぼんやりと思い出した。
結局キャンプは何度かやってそれきりだ。山の中で食べる虎次郎の料理は格別だったが、土の上ではスケートできないことがふたりとも不満だった。
「このへんにするか」
 少し開けた場所で虎次郎が立ち止まる。車からそこまで離れてはいないがなにしろ光源がランタンひとつ、あとは頭上の木々の間からかすかに漏れる月の光だけで、数メートル先はもう真っ暗だ。世界にふたりきりで取り残されたような錯覚に陥る。
 けれど本当にふたりきりならこんなことをする必要はないのだ。
 虎次郎は地面にランタンを置いて、そのそばにシャベルを突き刺した。ざくり、落ちていた枯れ葉をかき分けて土へめり込む音がする。薫はそこから距離をとって──ちょうど人ひとりぶんくらい──同じようにシャベルを土へ振り下ろす。ブーツで踏むとシャベルは湿った土をかき分けてずぶずぶと沈んでいった。柄を手前に引いてシャベルに土を乗せ、そのまま横へ払って捨てる。
 地面にほんのわずか空いた穴を見下ろして薫は砂漠で雨水を集めているような気持ちになった。ひとつの動作でこれでは、トランクにいるアレを隠せるほど大きな穴を用意するまでいったいどれほどの労力と時間がかかるのか。
 顔を上げると向かい側では虎次郎がもくもくと地面を掘っていた。ざく、とシャベルを突き刺し、ばっ、と土を横へ捨てる。ざく、ばっ、ざく、ばっ。簡単そうに見えるのは大きな体格がそう見せているのだろうか。掘り返され続けている土の音に混じって虎次郎の呼吸が聞こえてくる。
 薫は視線を落として作業を再開した。どんなに途方もなくてもやれば終わるしやらなければ永遠に終わらない。シャベルを地面に刺す角度や深さ、柄への力の入れ方や傾け方を試行錯誤しながら、もっとも効率のよい方法を探す。カーラがいれば計算させてすぐに答えが出せるところだがそのカーラを置いてくる判断をしたのは薫自身だ。
 向かい側ではやはり、虎次郎がランタンの光を浴び、その反対側に影を落としながら土を掘っていた。進みの遅い薫に文句を言いもしない。薫もそれにならうように黙って土を掘り続ける。パーカーに隠した髪の隙間から汗が垂れて地面に落ちた。こんな状態でいたら余計に喉が渇いてしまう。
 他でもない薫と虎次郎が一緒にいて、こんなに長い時間言葉を交わさないなんてことがあるのかと他人事のように思った。時計を見ていないから今が何時なのかも、どれくらいの間こうして地面を掘り続けているのかも判然としない。とにかく早く、日が昇ってしまう前に終わらせなければ。
 ふたりがかりで掘っていた穴はだんだん大きく深くなってゆく。目的の形に近づくにつれて、今やっていることがなんなのか実感を持って目の前に現れたようで薫は奥歯を噛み締めた。
「……もういいんじゃないか」
 からからの喉から絞り出すように薫が言うと、穴の中に入って深く深く掘り進めていた虎次郎が顔を上げた。全身のあちこちを土で汚した虎次郎の姿が弱い光の中に浮かび上がる。穴の深さは虎次郎の腰ほどまであった。
「そう、だな」
 虎次郎はひとつ大きく息を吐くとまずシャベルを外へ放り、穴から這い出した。ランタンの明かりは穴の中までは届いておらず底なしのようにも見える。
「薫」
「……ああ」
 声をかけて歩き出した虎次郎のあとに薫も続く。トランクに隠していたビニールシートの塊を、できることならもう触りたくなかったそれを持ち上げて、下りてきた道をまた登った。
「このままいくか?」
 掘った穴のかたわらに立ち、虎次郎が確認する。
「いや……土に還らないのは」
「ああ、そうか。そうだな」
 それを言うなら衣服だって怪しいがこの際それは無視した。縛っていた紐を解いてビニールシートを開くと男の姿が現れる。俯いていて顔が見えないことだけが今この場で唯一の救いだった。
「いくぞ、せえ、のっ」
 虎次郎の合図に合わせてふたり同時にビニールシートの片側を持ち上げると、ひとの形をした重い物体と化したそれは少しひっかりながらごろごろと転がって、穴の中へどさりと落ちた。途中で妙な音がしたのは腕か足か首が折れたのかもしれないが、それを確かめる気は起きないし意味もない。
「はぁ、はぁ……これ、で」
 突っ立ったまま呆然と呟いた薫に、虎次郎は地面から拾い上げたシャベルを渡す。
 やるべきことはようやく折り返したところだった。

 掘った土を元に戻して死体を埋め、その上を踏み固めた。あたりに降り積もっていた落ち葉をかき集めて埋めた土の上に撒けば、少なくともふたりの目には来たときとそう変わらないように見えた。
 そもそも人通りなんてないはずの場所だ。小細工をし続けるよりは早く離れたほうがいい。空はまだ暗いがあと一時間もすれば白み始めるだろう。
 来た道を戻る車の窓は開いている。虎次郎が運転席から操作して助手席側の窓も開けたから、顔の両側から風がひっきりなしに通り過ぎていった。
「──虎次郎」
 風の吹く音にまぎれて呼ばれ、虎次郎は目線だけをちらりと左へ向ける。薫は窓のほうを向いていて虎次郎からはパーカーのフードのシルエットしか見えなかった。
「ん?」
「酒が飲みたい」
「……うちでいいか」
 薫は窓の外へ向いたままわずかに頷いた。

 虎次郎の家のリビングにはふたりがけのソファがある。ごく一般的なサイズだが、平均男性よりも上背のある薫ともっと体格のいい虎次郎が並んで座るといささか窮屈なそのソファの、左側が薫の定位置だった。
「ワイン切らしてた」
「なんでもいい」
 店なら選択の余地があるが自宅ではそうもいかない。ロックグラスに注いだウイスキーを薫はおとなしく受け取って口元で傾けた。渇ききった喉をアルコールがするりと滑り落ちる。喉のその奥の内臓も焼けるように熱い。
 薫の喉が鳴ったのを見てから虎次郎もソファの右側に腰を下ろした。座面が沈んで薫の体が少し揺れる。
 虎次郎もグラスをあおり、そうしてから先に水を飲んだほうがよかったと思い至った。そんなことも考えられない程度には疲弊しているらしい。
 飲みたいと言った当の薫はひとくち飲んでそれきり、左手でグラスを握り締めたまま動かなくなってしまった。
「薫?」
 顔を横へ向ける。薫はもうフードは下ろしていて、常ならばありえないほどぐちゃぐちゃに乱れた桜色の髪の下、蒼白としか言いようがない顔色で床を見つめていた。
「薫」
 ソファに投げ出された右手が震えている。
 虎次郎はグラスをローテーブルに置くと、薫の手を上から包んで握り締めた。互いにさっきまでシャベルを握り土を掘っていた手だ。家に着いてすぐに洗いはしたがまだ土の匂いがこびりついているような気もする。それとも嗅覚にこびりついてしまったのだろうか。
 薫は手を振り解かなかった。
「虎次郎」
 視線を床に落としたまま、薄い唇が最低限だけ動いて名前を呼ぶ。
「…………悪い……」
 消え入るような、ほとんど呼吸に近い声だった。今夜はずっと、これまで知らなかった薫の声ばかり聞いているように思う。
「……なにが?」
 子供をあやすような声が出た。薫だけでなく虎次郎のほうも初めて耳にする声が出るとは。
 薫は答えない。動かない。虎次郎は左手を薫の肩に回して引き寄せた。薫はやはり動かない。緊張のせいかアルコールが入っていても触れた部分の体温が低かったが、死体に比べたらずっと温かい。

 薫が虎次郎に謝罪したのは、後にも先にもこの一度きりだった。

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