03272310

薫誕生日おめでとう

 誕生日なんていまさら特別に扱うこともない。
 子供のように自分からプレゼントをねだることも、高価な買い物をすることもない。飾りつけた誕生日会も大きなケーキもない。ただ暦の上でひとつ歳を重ねるだけだ。朝起きてから夜眠るまで他の日とさして変わらず過ごして終わる。
 特別である必要なんてないのだ。

 眠りの浅くなるタイミングで手首に振動が伝わって、薫はゆらゆらと漂っていた夢の中から現実へと着地した。ゆっくりと瞼を上げると窓の向こうから白い光が射し込んでいるのが見える。外は晴れているようだ。
「おはよう、カーラ」
 寝起きの擦れた声で囁けば、それを合図にバングルの振動が止まる。
『誕生日おめでとうございます。マスター』
 まだぼんやりとしていた薫の耳におはようの代わりに年に一度だけ聞こえてくる言葉が届いて、急に意識がクリアになる。そうか、今日は三月二十七日か。
 カーラに誕生日を祝わせるような機能は実装はしていない。これはカーラが膨大な学習を重ねる中で覚えたもののひとつだった。数年前に初めて聞いたときは思わずシステムログを確認したものだ。当然エラーログなどなく、カーラはデータとして持っていた薫の誕生日と当日の日付を結びつけ、誕生日は祝うものであるという知識を実践しているのだった。
「ありがとう」
 カーラは応えるように桜色に淡く点滅したあと、いつも通り今日のスケジュールを読み上げ始めた。
 午前中に移動と挨拶、十四時から書道パフォーマンス。その場にメディアの取材が来るので控室で対応。夕方には帰宅できるが来週納品の作品がまだ完成していないからその構想も進めねばならない。
「天気は」
『一日晴れ。最高気温は二十五度です。紫外線対策をお忘れなく』
 まったくもって普段と変わらない一日が始まる。

 今年の薫の誕生日は日曜日だった。薫の仕事は基本的にあまり曜日は関係ないが、今日書道パフォーマンスの仕事が入っているのは日曜日だからだろう。人通りのある曜日に施設への集客を狙って、というのはたびたびあることで、もちろん薫のほうも知名度アップに貢献するからこの類の仕事は進んで請けることにしていた。
 施設側のスタッフとも何度か仕事をしたことがあるから懸念はなかった。アシスタントも皆もう段取りに慣れている。ストレスがかからないのは良いことだ。
 パフォーマンス後、アシスタントを先に返し取材を受けて本日の業務はつつがなく終了。タクシーで帰宅する薫の手元でスマートフォンが光った。
『今夜暇なら来いよ』
 薫にこんなメッセージを送ってくる相手はひとりしかいない。
 暇かそうでないかと言えば予定はない。毎年そうだ。誕生日の夜は仕事も誰かと会う約束も入らず、虎次郎は決まってこの連絡を送ってくるから、断る理由もなくて薫は店へ行くことになる。普段は薫の気まぐれで店に行くばかりでこうして呼ばれることはめったにない。薫の誕生日か、急な大型台風が来て仕入れた食材を使うあてがなくなったときくらいだ。そのふたつが同列なのもどうかと思うが。
 虎次郎は昔からイベントごとだったりひとになにか与えたりするのが好きなタイプだった。薫にはまったく理解できず酔狂だなとしか感じないが、今夜の誘いについて言うなら酒と料理が待っているのだから乗らない手はない。
 とはいえ賑わっているであろう日曜のディナータイムにわざわざ混ざる気は起きず、家で事務連絡とカーラのレンダリングエンジンの調整をしているうちに夜はゆっくりと更けてゆく。これもいつもの過ごし方と変わらない。

 閉店間際の店へ行くとちょうど三人組の女性客が出てきたところだった。きゃあきゃあと上機嫌に話す彼女たちの向こうで虎次郎がドアを開けて押さえ、ありがとうございましたお気をつけてと言うのが聞こえる。こうして表まで見送りに出ているのはこれが最後の客ということだ。
「お。来たな」
 薫に気づいた虎次郎の笑顔の種類が変わる。客相手のスマートさが抜ける代わりに目元が子供っぽく輝いた。
 虎次郎が押さえたままのドアを通って中へ入るとあとから虎次郎も戻ってきて、カランとドアベルが優しく鳴る。さっきの三人組が座っていたらしいテーブル席の他はもう片づいていた。薫がいつも座るカウンターの席ももちろん綺麗に整えられて、薫が来るのを待っている。
「飯食うだろ。飲んで待ってろ」
 虎次郎はカウンターにワイングラスをふたつ並べると、大きな右手でボトルの底を持ってグラスへ傾けた。プラチナのようにきらめく液体が均等に注がれる。底のほうの膨らんだあたりまで控えめに、けれど香りはグラスいっぱいに満ちていることだろう。
 虎次郎はまだ中身のたっぷりあるワインボトルをカウンターに置くと厨房へ引っ込んでいった。
 席についた薫の視線と同じ高さにワインのラベルがある。普段薫が指定しようものならすぐに却下されるような銘柄だ。持ってくるくせにそれ以上のことは言わない、薫がその価値に気づくであろうことはわかっていて、でも虎次郎のほうからアピールはせず、薫が気づかなかったとしても構わないという態度だった。
 薫は並んだふたつのグラスをじっと見た。磨かれたガラスに自分のシルエットが映り込んでいる。
 華奢な脚を持ち上げれば、顔に近づけるだけでむせ返るような香りが広がった。そのくせ舌に招くとその味わいが一瞬広がったあとはするりと喉を通りすぎて、いつまでもしつこく残りはしない。腹には溜まっているはずなのにそれを感じさせない、ペースを上げないほうがよさそうだ。
「カーラ、明日の予定は」
『午前中はオフ、十五時に××様がいらっしゃいます』
 営業中は店内に流れているジャズももう終演しているから、聞こえてくるのは虎次郎が料理をする音だけだった。バタン、これは冷蔵庫を開けた音。なにかを盛りつけているらしく皿とトングがカチャカチャと鳴る。シンクの水を流す音。ガスコンロがボッと点火したかと思えばフライパンに油が踊るのが聞こえてきた。温度の上がったオリーブオイルとガーリックが、ワインの香りの向こうにちらりと覗く。
 つまむものもないので薫はカウンターに残されたもうひとつのグラスを眺めながらワインを舐めた。
 お前も飲むのかなんて野暮なことは言わない。薫がこうしてグラスを傾けているうちに、虎次郎はこれに合った料理を持って戻ってくるはずだ。いつもと違うワインに合わせた、いつもと少しだけ違う料理を。
 置いたグラスの脚に指先で触れたまま、薫は行儀悪くカウンターに左肘をついた。手の甲に頬を預け目を閉じる。
 気分がいい。
 誕生日なんて他の日と変わらない。特別なことがあるとすれば、このくらいがちょうどいい。

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