9〜9.5話あたりのミヤとチェリー、ジョーチェリ匂わせ
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実也のまわりには大勢の大人がいる。
スケートのコーチ。取材に来る記者。世界選手権の出場を賭けて競い合うライバル。あるいはSで勝負する無法者まで。クラスメイトたちは一生関わらないような相手と実也はずっと相対してきた。
実也を子供扱いするひともいれば、才能に嫉妬して露骨に嫌味を言うひともいた。見えすいた世辞を──決して嘘ではなくてもそんなのは態度でわかる──言って機嫌を取ろうとするひともいた。そのどれに対しても、実也はそつなく相手する必要があった。スケートのテクニックに自信はあるし、技を磨く努力もしている。けれど実也がまだ十二歳のちいさな子供であるということは、ただ事実としていつもついて回るのだった。
この若さでこんなにも技術が、といえば長所になるし、もっと体が大きければと思うこともなくはない。実也よりも長くスケートを続けているひとと比べたら、経験はどうあがいても追いつけない。
今の自分を劣っているとは感じなくとも、周囲とのギャップはある。大人たちが意識させてくるギャップの数々を、実也はいつも意識しすぎないようつとめて、やりすごしてきた。
そんななかでひとり異質な大人が現れた。彼のあの場所での名を、チェリーブロッサムという。
名前もその滑りも以前から知っていた。AIを自作するほどの頭脳とそれを活用した隙のないスケートは、どちらかというとアウトローなSの場においては特異で、そして確実に結果を残している。
チェリーのほうも「MIYA」を知っていたはずだ。だが直接話すようになったのはつい最近で、そして関わってみると、彼は良くも悪くも実也の周りにいる大人たちとは一線を画していた。
まずあからさまに態度が悪い。子供相手にニコニコ、なんて絶対にしない。友達を──と言ったらふたりとも嫌がりそうだが実也からはチェリーとジョーは友達同士に見える──すぐ足蹴にして悪口を言う。中学校でも聞かないような、小学生みたいな喧嘩をしょっちゅうしているせいで嫌いなのかと思いきや、それはつまり頻繁に喧嘩するほどしょっちゅう一緒にいるということだから嫌いではないのだろう。その喧嘩をするときと変わらない低い声が、ミヤ、と子供である自分を呼ぶのが、対等に接してくれていると感じられて好きだった。
完璧なスケーティングと誰にも媚びない態度。あんなふうに在れたなら、きっと実也も世界に出たって揺るがずにいられると思えた。
そのチェリーブロッサムが頭から血を流して倒れている。
「薫!」
ジョーが鋭く叫びながら駆け寄るのを実也は必死で追いかけた。チェリーはこの場所で本名を呼ばれるのを嫌がるのに、今はジョーを蹴りも怒りもしない。そんなことができる状態ではないからだ。起き上がってジョーを怒鳴りつけてくれたらどんなに安心できるだろう、けれど、チェリーはそれをしない。
「……チェリー……」
すぐそばに立ち尽くし、やっとの思いで名前だけを呼んだ。他にかけるべき言葉がわからなかった。服はぼろぼろに破れ、長く美しい髪は血と土に汚れている。一番目立つ怪我はやはり頭部だが、腕や足をろくに動かさないところを見るとそちらも負傷しているようだった。呼びかけに気づいたチェリーの金の瞳がゆるりと実也へ向けられる。破れたマスクの下の、傷のある唇が少し動いたが、あの低い声は聞こえてこなかった。
スケートボードに怪我はつきものだ。実也だってこれまでに大きな怪我も小さな怪我もたくさん負ってきた。けれど今のチェリーの怪我はそんな、失敗するほど上手くなるなんて話ではなく、ただ暴力によって傷つけられたものだった。
愛抱夢はその圧倒的な技術をもってひとへ恐怖を与えるのが上手い。予選で実也も味わった。でもチェリーを倒れさせたのはスケートの技術ではなく、もっと根源的な力によっていた。見ているほうが目を逸らしてしまうほどの。
ジョーと実也をここまで連れてきてくれたピンク色のワゴン車を、シャドウがゆっくりとチェリーへ近づけて停車させた。
「いいのか。店の車だろ?」
「んなこと言ってる場合か! 早く乗れ」
「……助かる」
ジョーはチェリーのかたわらに膝をつき、これ以上ないほど慎重にチェリーの身体を抱え上げた。剥き出しの肩口の太陽に血がうつる。そのまま後部座席へ乗り込もうとするジョーのジャケットを引っ張ろうとした実也は、そのせいでチェリーに振動を与えたらまずいと気づき、すんでのところで手を止めた。代わりにうわずった声を上げる。
「僕……僕も乗せて、」
ジョーは首だけで振り返り、なにかを言おうと口を動かしかけて、助手席な、とだけ言った。
見舞いも三度目ともなれば慣れたもので、面会受付で名前を書くのも、大きな病院の入り組んだ廊下を病室まで歩くのも迷うことなくできる。一階の受付、ナースステーション、大部屋、個室と、病院の奥へ進んでゆくにつれて周囲はだんだんと静かになっていった。
入口が開放されている大部屋と違って、個室のドアは日中でも閉じている。軽くノックすると、はい、と実也の好きな声が返事をした。
「お邪魔します」
「ミヤ」
チェリーはベッドの上で身体を起こし、ベッドサイドテーブルにタブレットを置いて眺めていた。前回来たときと同じだ。
「あ、頬、綺麗になったんだね」
よかった。そう言われ、チェリーは自由に動かせるほうの左手を右頬に当てた。大きな絆創膏で保護していた擦過傷は、初めは赤い肉が覗くほどだったものが徐々に再生し、最終的に薄いかさぶたが剥がれ元の肌に戻った。
「ジョーは?」
「別に毎日来てるわけじゃない」
チェリーはあからさまに嫌そうに眉をひそめた。実也が見舞いに来た一度目と二度目はどちらもジョーも来ていたから、今日も会えるかもと思っていたら当てが外れたようだ。
「なんだ、残念」
「ゴリラに用なら店のほうに行ってやれ」
「うーん、そういうんじゃないんだよね」
ふたりでいるほうがしっくりくる、というだけだ。これも言ったら嫌がられるだろうけれど。
「学校は?」
「今日、授業少なかったんだ。だから遊びに来ちゃった」
「遊びに来るほど楽しい場所でもないだろう」
「そんなことないよ」
実也は入院しているひとへの見舞いをするのが初めてだから、非日常で少しそわそわしているのは否めなかった。これがゲームであったら、フラグが立つというやつだ。そんなふうに思えるのはチェリーが回復してきているからで、怪我をして運び込まれるのを見守っているときはこのまま死んでしまうのではないかと怖かった。
今もまだ右腕はギプスで固定されているし、左足も不自由なまま、見た目はあちこちに包帯を巻かれていて痛ましいのに、本人が落ち着いているから実也の不安も薄らいでゆく。
控えめなノックの音に続いて静かにドアが開く。入ってきた看護師は実也に気づいて軽く会釈をすると、チェリーのほうへ向いた。
「桜屋敷さん。検診のお時間です」
「ああ……」
毎日午後の決まった時間に検診がある。なにも面会時間に被せなくてもと思わないでもないが、ろくに歩けず一日中ベッドにいる患者と忙しくしている医者の都合のどちらが優先されるかといえば決まりきっていた。
「ミヤ、来てくれたところ悪いが」
「うん。いってらっしゃい」
「気をつけて帰れ」
特に他意はないのだろう。そのくらいのことはわかる程度の時間を過ごした。けれどその一言は、実也を妙に寂しくさせた。
「ねえ、その検診って時間かかる?」
「三十分は」
「ふーん……」
そう長い時間でもない。窓の外は少しずつオレンジが混ざり始めているが、深夜の鉱山に比べたら朝みたいなものだ。
「待ってちゃだめ?」
「……構わないが」
なぜ、と視線に問われたのを実也は得意の笑顔で弾き返した。そんなの、もっと一緒にいたいからに決まっている。
チェリーはそれ以上言及せず、車椅子へ移りながら、それなら、と言った。
「冷蔵庫にあるものを食べていてくれ」
「いいの?」
「ありすぎて困ってるからな」
軽く肩をすくめ、看護師に車椅子を押されて出て行った。
実也は言われたとおりに冷蔵庫を開ける。
病室に備えつけられた小さな冷蔵庫いっぱいに食べ物が詰まっていた。フルーツの実が透けて見える大きなゼリーや立派な箱に入った苺は、きっと仕事の関係者から贈られたものだろう。
その隣に、実也の家の冷蔵庫にもあるようなタッパーが積まれていた。誰が作って持ってきたかなんて訊かなくてもわかる。ポテトサラダ。白身魚のマリネ。ミートボール。ひとまわり小さいタッパーの中、地層のように見えるのはティラミスだ。これは実也も食べたことがある。
「お酒じゃん。病人なのに」
これにしよう。高そうなゼリーよりこっちのほうが絶対においしい。半分残しておけば怒らないだろう、チェリーじゃなくてジョーが。
棚にあった紙皿とプラスチックのスプーンを取り出して、実也はベッドの脇に付き添うように置かれていた黒いスケートボードに声をかけた。
「ね、カーラ」
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