Another Day of Sun

9話Cパートすごすぎた 薫の病院脱走記

 一日はおとなしくしていたことを褒めてほしい。

 顔面に衝撃を受けたあとのことを案外覚えている自分に薫は感心した。愛抱夢に言われたことも、去ってゆく後ろ姿も、それと入れ替わりにすごい勢いで現れたピンク色のワゴン車も、駆け寄ってきた虎次郎の顔も。
「薫!」
 聞き飽きた声が鋭く届く。キャップマンより先に来るのかと、予想を裏切らない幼馴染に薫は心の中だけで笑った。
 全身が泥に沈められたようにだるくて指先すら動かせず、口も喉もうまく動かないので声も出せない。破れたマスクの隙間からひゅうひゅうと浅く呼吸するのだけで精一杯だった。酸素が足りないせいで頭も回っていないことがわかる。視界も思考もぼんやりと霞んでいるが聴覚は澄んでいた。耳は無事のようだった。
「大丈夫か。聞こえるか?」
 虎次郎が話しかけながら薫の黒いマスクに手をかけ喉元まで下げた。聞こえる、と言いたいがやっと許された深呼吸がうまくいかず、乾いた咳をして終わった。虎次郎の眉根がきつく寄せられるのがわかる。例え目を瞑っていたってわかっただろう。
「チェリー……」
 こちらは最近になってよく聞くようになった声だ。顔も動かせないから視線だけをなんとか声のしたほうへやると、薫のすぐそばにミヤが立ち尽くしていた。ああ、子供に見せる姿ではなかったなと、薫は今回のビーフの結末を後悔した。
「ミヤ、カーラを取ってきてくれないか」
 虎次郎の言葉にミヤが従う。小さな足音が離れていくのが聞こえた。
「動かすぞ。舌噛むなよ」
 薫が反応を返せない状態だと判断した虎次郎はそれだけ言うと、薫の首の後ろと膝裏に腕を回して慎重に抱え上げた。気遣われているのはわかっても動かされた途端に全身に痛みが走って薫はぎゅっと目を瞑る。スケートに怪我はつきものだがさすがにここまでひどい大怪我を、それも自分のミスではなく故意の暴力を向けられて負ったのは初めてだった。
 どうしてこうなってしまったのだろう。
 高校生のときからずっと抱えていたその問いの答えは、今の痛みの中にも見つけられなかった。

 次に意識が浮上したときはにはもう処置は済んでいて、外は白み始めていた。
 病室はさっきまでの鉱山の熱狂が嘘のように静かだ。薫は個室のベッドに横たわったまま周囲を見回して、首が動くことをまず確認した。痛み止めを打たれているのだろう、負傷直後のような激しい痛みはもう感じない。全身の状態を確認して、足はともかく利き腕を吊られていることに舌打ちした。
「カーラ」
 声も出せる。
 薫だけの優秀なアシスタントは小さく落とした声も聞き逃さない。ミヤが回収してくれたらしいスケートボードはベッドの近くの壁に立てかけられていて、薫の声に反応して淡く光った。
「今日の予定を全てキャンセル、リスケの日程は一週間後以上で調整してくれ」
『本日の予定は三件。メールを送ります』
「あとは、虎次郎に、車椅子を持ってくるようメッセージを」
『OK、マスター』
 病院特有のにおいが鼻につく。耳を澄ませば、扉の外を行き交うひとの足音が聞こえる。
 他人の気配があるのは得意ではない。眠れないだろうと思いながら、他にできることもないので薫はそっと目を閉じた。
 瞼の裏に愛抱夢の姿が浮かぶ。告げられた言葉が何度も何度も頭の中に反響する。
 ここが自宅であったとしても眠れそうになかった。

 薫がカーラに預けたメッセージは正しく伝えられ、しかし想定外のかたちで遂行された。
「よお。具合はどうだ」
 味のしない流動食をなんとか飲み終えたころ、小さな花束と黒い車椅子を持ってやってきたのは虎次郎ではなかった。
「シャドウ」
「今その名前で呼ばれるのも変な感じだ」
 今は奇抜なメイクをしていない花屋の従業員が、面会の手続きをしてやってきたのだった。持ち込んだ車椅子を存外に慎重な手つきで部屋の隅へ置いて薫へ事情を説明する。
「ジョーから連絡があってな。店が忙しくて見舞いに来れないんだと」
「そうか」
「俺は配達のていで来れるからな」
 花屋の配達にしては花以外の荷物が大きいが、それには触れないでおいた。シャドウは部屋にあった花瓶に手際よく花を移すと、ベッドの脇に歩み寄る。
「ゆうべ車を出してくれただろう。助かった」
「いや……」
 言い淀んだ言葉の先を、薫は追求しなかった。愛抱夢とのあの戦いの意味はシャドウにはわからない。説明したところで伝えられるものでもない。
「……早く完治するといいな」
「全くだ。湯治にでも行くかな」
 行きずりで共有している思い出を挙げるとシャドウは苦々しく笑った。思い出すだけで泥のにおいをがするのはお互い様だ。
「じゃあ、俺は店に戻るから。まあ、なんだ、思ったより元気そうでよかったぜ」
「ああ、帰る前に車椅子をこっちへ持ってきてくれ。……そう、すぐそばへ」

 夜のぶんの、食事とは到底呼べないような液体も全部飲み干した。医者から安静にと言われたとおりベッドから出なかったし、信じられないほど早い時刻の消灯にだって従って一応は目を閉じたのだ。
 それでも眠れないのだから仕方がない。体は疲れ切っているのだから眠れてもいいはずなのに、元々の寝つきの悪さに輪をかけたように頭が冴えて、このまま朝を迎えるのが目に見えていた。
 やはり車椅子を届けさせて正解だった。薫は明け方の自分の判断を称賛した。
 病棟を抜け出せるかどうかは五分五分だったが見込みはあった。こういうことは焦ると失敗するのだ。静かに、慎重に、とにかく建物の外へ出られればいい。もし見つかってもベッドに連れ戻されるだけだ、警察に追われることに比べたらリスクなどゼロに等しい。
 入院の手続きをした虎次郎が神経質な薫に気を回したのだろうが、その結果個室に入れられたのも運がよかった。この部屋は廊下の奥まったところにあり、業務用エレベーターに近い。夜勤の看護師の見回りだってどうせ数時間に一度だ。
 消灯してから一度目の見回りを寝たふりでやり過ごし、暗い部屋の中でベッドから手を伸ばす。シャドウが持ってきた車椅子は以前カーラを組み込んだもので、操作性は市販の車椅子とは比べものにならない。自分の作った、慣れたものに触れると安心する。
 片手と片足に不自由を覚えながらもなんとか車椅子へ移動すると、音を立てないようゆっくりと漕ぎ出す。扉から顔を出して廊下の様子を窺えば、見回りの看護師がナースステーションへ戻っていくのが見えた。

 外へ出てぬるい夜風を吸った瞬間、呼吸の仕方を思い出したような気がした。
 幸いなことにこんな時間だというのにタクシー乗り場に一台だけタクシーが停まっていた。運転手は休憩のつもりで停めたのかもしれないが、そこにいる以上は働いてもらう。
 入院着に車椅子という姿でドアをノックした薫に運転手はあからさまに怪しげな目を向けたが、薫は仕事用の顔を作り、急用で、許可は取ってありますと押し通した。
 すっかり覚えている住所を告げるとタクシーは静かに夜の町へと走り出す。外を見ても出歩くひとや対向車はほとんどない。ただ家の明かりがぽつぽつと窓の向こうを流れていくだけ。
 さて。と薫は短く吐息する。
 ぎゃんぎゃんと文句を言われはするだろうがそんなのは今更だ。薫としては一日は病室でおとなしくしていたことを褒めてほしいくらいだった。病院から脱走しなかったとしてもどうせ喧嘩はするし、薫が連絡すれば文句を言いながらでも彼は絶対に席を用意する。
 文句でもなんでもいい。それが聞きたい。
「カーラ、虎次郎にメッセージを」
『はい。内容をどうぞ』
「今から行くから店を開けておけ」

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